歳月列車

米国での日常、そして、忘れえぬ日本の思い出

三ノ宮再開発と駅前風景の均質性

この夏の一時帰国時、いつものように三ノ宮・元町界隈をぶらぶらしていたのだが、JR三ノ宮の駅前にあったターミナルホテルが取り壊されて、完全に更地となっていることに気づいた。あのホテルは、僕が物心ついたときからあって、1階の喫茶店は待ち合わせや休憩でよく使ったし、大学時代にはあの中のフランス料理レストラン(何階だったか忘れたが、「シャンテクレール」といったかな?)でウェイターのバイトをしたこともあるので、思い出深い場所だった。それが消えてしまい、そして、駅の向こうの山側の景色が、海側から一望できるというのは、なんとも不思議な、ちょっぴり非現実的な感覚だった。

ターミナルホテル取り壊しは、よく知られているように、神戸の都心再開発の一環だ。阪急三宮の方はすでに駅ビルが完成しており、西口はすっかり見違えている。JRの駅ビル開業は2029年だというからまだまだ時間がかかるが、計画がついに着工し、未来のの三ノ宮駅前が具体的な形で想像できるようになったわけだ。1995年の阪神・淡路大震災から28年、長かった。

大阪・京都と比べると大きく遅れていた神戸の都心の再開発が進んでいるのは、素直にうれしいが、同時にちょっと冷めた目で見ている自分もいる。新しい駅ビルにどんなテナントが入るのかは全く知らないが、おそらくスターバックスあたりのカフェがオープンテラスを構えて、全国チェーンのレストランがいくつか入って、さらに、ちょっと神戸感を演出するために、地元のおしゃれな洋菓子店にもカフェを出店してもらって、という感じになることはおよその見当がつく。ここ数十年、日本全国の都市部で行われてきた再開発の場合と同様、均質化された駅前の風景がここ三ノ宮にも誕生することになるのだろう。

都市の風景の均質化は近年特に加速し、その月並みさはもう相当なレベルに達しているような気がする。どこに行っても同じ店、同じ品物、同じサービス。もちろん、これは日本に特有の現象ではなく、例えば、僕の住む米国の郊外モールの均質性は、日本の駅ビルのそれの比ではなく、東海岸でも西海岸でも中西部でも、どこへ行ってもちょっと怖いくらい同じ店が並んでいる。

日本全国どこにいても同じような店で同じようなものが買えるというのは、一方では市場の民主化のような気もするけど、街歩きが陳腐になってしまったのも真実だと思う。都市が郊外や田舎と決定的に違うのは、前者には、何があるか分からない、何が起こるか分からない予測不可能な空間があることだと思う。表通りから外れた狭い通り、ちょっと薄暗い路地、そういった場所にある古本屋や酒場やお好み焼き屋やその他諸々のちょっと怪しい店。僕が子供の頃、湊川や新開地、元町が大好きだったのは、そこにはそういった場所が無数にあって、行くたびにワクワクドキドキしたからだが、日本の多くの街からは、今そういう空間がどんどん消えていき、明るく衛生的で無機質な空間に取ってかわられている、つまり、街の都心部がどこも郊外のショッピングセンターのようになりつつあるような気がする。

もちろん、こういった均質な場所に利点があることは、重々承知している。ちょっと喉が乾いたらローソンでお茶、小腹が空いたらドトールでサンドイッチ、外出先で服を汚してしまったらユニクロでTシャツというふうに、そこそこの規模の街の駅周辺では、たいていのモノがとても簡単に買えてしまう。一時帰国中はあの街、この街とフラフラしている僕のような旅人にとって、これは本当にありがたい。また、都市住民の中には、刺激や発見より利便性と簡潔さを優先する人々も多くいるわけで、そういった人たちには、昨今の都市部の再開発は歓迎すべき動きだと察する。

なので、僕は、自分の感じている街並みの変化に対する違和感が万人を代表するとは全く思ってはいない。これは、あくまで僕の個人的な感想であり、その根っこには消えゆくものに対する中年男の郷愁があることは、自分でもよく分かっている。

ボブ・グリーン『1964年春』を読み返す

去年の夏、父の死以来はじめて一時帰国したのだが、実家には、若いときから父が愛読していた多くの本が本棚に並んでいた。それは今も変わっていない。父の持ち物の処分は少しずつ始めているのだが、本は父が長い年月をかけて買い集めたものなので、母もそう簡単には処分してしまおうという気にはならないらしい。

代わりに、と言っては何だが、せめて自分のものは少しずつ減らしていこうと思い、自分の本の整理を始めた。ブックオフに引き渡してしまうには少々名残惜しいようなハードカバーの本は、古本屋を営んでいる大学時代の友人に引き取ってもらうことにした。

パンデミックまでは毎年2回実家に帰っていたとはいえ、本棚を整理したことは一度もなかった。なので、そこは、まるで学生時代のまま時が止まったような小さな空間で、本を一冊一冊手に取り箱に詰めていく作業は、それぞれの本を読んでいた当時の自分や自分を取り巻く環境を思い返す体験でもあった。ページの間から古いレシートやメモを見つけては思わず見入ってしまったり、何故こんなところに付箋が貼ってあるのか、何故下線が引いてあるのかを考え込んでしまったり、思いの外時間がかかる作業だった。

中学生から大学生までの頃、僕は、今よりもっとたくさん本を読み、たくさん音楽を聞き、たくさん映画を見ていた。とても多感だったその頃、僕のお気に入りのひとつはアメリカ文学で、当時は原書で読むほどの英語力は到底なかったので、翻訳ものをけっこう貪欲に読んだ。ジョン・アーヴィングの『ホテル・ニューハンプシャー』とか『ガープの世界』なんて本当に好きで、何度も読み返した。サリンジャーは、ちょっと難解だったが、青春時代のやり場のない不安みたいなのには、大いに共感できた(と信じている)。スコット・フィッツジェラルドの描く1920年代のアメリカは、都会的なものへの強烈な憧れを刺激した。

あれから四半世紀以上の歳月が流れた。これらの本に没頭した当時の自分はすでにおらず、それらを手放すことにほとんど迷いはなかった。が、ボブ・グリーンの『1964年春』は、なぜか手放せず、日本国内の電車や地下鉄の中、ホテルのベッドなんかでちょっとずつ読み返した。

ボブ・グリーンは、小説家というよりエッセイスト。長らくEsquireにコラムを書いていた人だ。原書はBe True to Your Schoolという一冊の本だが、日本語翻訳では『1964年春』と『1964年秋』の2冊に分かれている。自分の部屋には『春』はあったが、『秋』はどうしても見つけられなかった。

これは、グリーン自身が1964年につけていた日記がもとになっている。グリーンは、オハイオ州の州都コロンバス近郊のベクスレー(Bexley)という町の出身で、この日記では、当時高校生だった彼の日常がつづられている。内容といえば、今日は友だちと会ってドライブしたとか、バイトに行ったとか、本当に他愛のないもので、今なら、さしずめ、オンラインのブログとかインスタという感じだろうか。

しかし、この他愛のない、ごく平凡な日記が高校生の僕にはとても魅力的だった。グリーンが育ったのは、一般的な中産階級の家庭のようだが、彼自身も彼の友人たちも普通に車を運転し(アメリカのほとんどの州では16になれば免許を取れますからね)、バーガーショップで夜食を食べ、バイトに励み、週末はパーティーに行っていた。一方、僕はといえば、もちろん車なんて持っておらず、家と高校の往復の毎日で、たまに三宮や元町をぶらついて、ちょっと不良(?)の友人に誘われて近所の居酒屋へ行ったりする程度の、いたって健全で代わり映えのしない毎日を送っていた。アメリカの高校生とは何と自由を謳歌しているのだろうとうらやましかった。

あれから30年以上の歳月が流れた。ベクスリーにはいまだ行ったことはないが、中西部には仕事の関係で数年住んだ。その間、オハイオ、ミシガン、インディアナ、イリノイなどで様々な場所を訪れる機会に恵まれた。中西部には、シカゴやデトロイト、ミネアポリスなど大都市もあるが、大半はベクスリーのような、娯楽に乏しい小さな町で、町と町との間に広大なトウモロコシ畑が広がっているのが中西部の典型的な風景だ。随分昔、僕がまだ子供だったころ、『フィールド・オブ・ドリームス』という映画があって、その中にトウモロコシ畑の風景がたくさん出てくるのだが、初めて中西部で実物を見た時は(インディアナでした)、けっこう感慨深かった。

春から夏までは過ごしやすい中西部だが、冬は恐ろしく寒く、これは本当にこたえた。マイナス10度くらい普通で、しかも、陰鬱な天気が何ヶ月も続き、慣れていない人は精神的にやられてしまうかもしれない。実際、僕も、寒さは何とか我慢できたが、1週間も10日も太陽が見えない日が続く鉛色の冬空には辟易した。

個人的にはもう二度と住みたいと思わない中西部だが、グリーンにとってはそれが甘い懐旧の念を呼び覚ます素晴らしき故郷であるわけだ。同じ中西部でも、僕にとってそれが意味するものとグリーンにとってのそれとの間には、絶対に埋めることのできない隔たりがある。

僕の中西部に対する個人的な感情は別として、僕は今でもやはりグリーンの『1964年』が好きで、米国に帰ってきてから、英語の原書を買ってこちらも楽しく読んだ。渡米して20年あまりが過ぎたこの時期にこの本を読み返すという作業は、自分が若い頃持っていた米国文化や海外生活への憧れを再認識する上でとても有用だった。米国で運良く就職でき、永住権も割にすんなり取れて、家も購入して、年に2回は日本へ一時帰国できる程度の給料ももらっており、本来なら満足すべき生活を送れているのに、ここ数年は、日本に帰りたいという欲望が異常なまでに膨れ上がっていて、人生の要所要所で行ってきた数々の選択をことごとく後悔・否定するようなマインドセットになっていたのだが、ボブ・グリーンのお陰で、初心に帰り、今の自分を見つめ直し、今ある自分の生活をもう少し楽しんでみようと思えるようになった。

本一冊で精神状態がこうも変わるとは、我ながら単純だとは思うが、好ましい精神状態がここのところずっと続いていることは確かなので、これを何とか維持できればいいのだけど・・・。

伊香保(あるいは、つげ義春的露天風呂)

伊香保温泉は、文学や映画にたびたび登場して、例えば林芙美子の『浮雲』やその映画版などは繰り返し読み、観ているので、若い頃から一度行ってみたいと思っていた。が、一度も行く機会を得ないまま渡米してしまった。もちろん、定期的に一時帰国はしていたが、関西から群馬は遠いし、東京からでも電車やバスを乗り継がねばならない。レンタカーを使うという手もあるが、米国で毎日運転しているので、日本にいるときくらいは運転からは解放されたい。そんなわけで、伊香保行きのことはずっと心の片隅にありながら、なかなか実行に移すことはなかった。

それが6年ほど前、とある偶然がきっかけでついに実現した。大学生の頃から仲のよかった友人Mちゃんが、夫の仕事の関係で埼玉県へ引っ越したのだ。埼玉といっても、川口とか和光とか東京寄りの埼玉ではなく、限りなく群馬に近い埼玉で、彼女の自宅から伊香保まで車で40分ほどらしい。それまでは、Mちゃんとは、僕の一時帰国中、新宿あたりで会って映画を見たり食事をしたりというのが定番だったが、今度は僕の方からそっちへ行くので伊香保へ連れて行ってよ、と持ちかけると、もちろんいいよ、と快諾してくれた。こうして、人生初の伊香保行きが決定した。

時は5月の中頃、新宿湘南ラインに乗り1時間半ほどで彼女の自宅の最寄駅へ到着。そこから、彼女の車で伊香保へ向かった。途中で水沢うどんを食べたり、道の駅で止まったりと、道草を食いながら、昼過ぎに伊香保に着いた。

三次元の世界で初めて対面する伊香保は、期待以上でも以下でもなかった。例の有名な長い急な石段は、古い映画でもう何度も繰り返し見ていたので、どうしても初めてという気がせず、やあ、ついに会えたね、という感じだった。それは、何年もSNSやEメールやアプリだけでつながっていた知り合いと、初めてリアルで会ったときの感覚に通じるものがあったかもしれない。

こんなふうに感動の対面には程遠かったわけだが、それでも、5月の晴れ渡った日の午後、涼しい風に吹かれながら温泉街を散策したり露天風呂に入ったりするのは、愉快で心地よかった。日本へ行っても、仕事と休暇半々どっちつかずで、東京や大阪の人だらけの所でほとんどの時間を過ごす自分にとっては、こういう100%の休暇、つまり、仕事から完全に遠ざかれる一日は、とても貴重でとてもありがたかった。

ま、ここまでは、伊香保ってええよね、温泉って気持ちええよね、というごく普通の話なんだけど、これには後日談があって・・・。先月の一時帰国中、伊香保を再訪した。去年は、Mちゃんと東京で会ったので、今年は僕が埼玉まで行くことになり、なら、また伊香保へ行こうとなったのだ。

しかし、今回は梅雨の真っ只中。予報を見ると、その日は100%の確立で雨、しかも大雨かもしれないとのこと。なので、とある旅館の日帰り滞在というサービスなるものを利用した。最長6時間滞在できて、温泉にも入れて、しかも食事付き。そこそこの料金だが、いつも利用している旅行サイトでの評価は高く、掲載されている写真も豪華で、躊躇することなく予約した。

が、これがとんでもない旅館だった。昭和のまま時が止まったような、改装・改修とは全く無縁のまま過去40年ほどを過ごしてきたような大時代的な旅館で、一歩足を踏み入れたとき、まるで異世界に放り込まれたような錯覚に陥ってしまった。客は僕たち以外にはほとんどいないようで、広いロビーはがらんとしており、ちょっと薄ら寒くなってくる。対応してくれた女将さんは非常に親切で愛想がよく、小綺麗にしていて現代的であるが、薄暗い古ぼけた旅館とは完全に調和を欠いており、逆にこの旅館の異様さに拍車をかけている。

チェックインを済ませて部屋に荷物を置くと、お風呂へ案内される。内風呂は、古く暗く汚く、これは旅館に足を踏み入れたときから想定済みだったので、さほど驚かない。問題は、露天風呂だ。こちらは、庭に穴を掘って泉源から湯を通しただけの代物にすぎない。一体、これがどう化けたらあの旅行サイト掲載の、幽玄で「もののあはれ」的なムード満載の写真になるのだと真剣に考え込んだ。

むき出しの、ちょっと泥のついた岩に腰掛けて湯に浸かりながら、つげ義春の一連の温泉漫画と紀行文を思い出さずにはいられなかった。この手のひなびた旅館、彼なら好んで泊まったのだろうけど、僕はやはり、明るく衛生的で近代的な宿が好きであり、つげ義春の漫画はあくまで読んで楽しむべきものであることを再認識。ただ、同行者Mちゃんは、1時間以上も風呂に浸かった後、ああ気持ちよかったと部屋に帰ってきたので、僕よりははるかに大らかで肝が座っているようであった。

せめてもの救いは、部屋が清潔で(もちろん古いです)、食事がそこそこ美味であったことだ。食事のあと、チェックアウトまでけっこう時間があったので、布団を敷いてゴロゴロ、ダラダラしながら、二人でとりとめのないことを話した。宿はしょぼかったが、ゆるりと休日を過ごすという当初の目的は果たせた。

ただ、この宿がなぜあの旅行サイトであれほど高評価だったかは今だに謎だ。サイトを通して予約した人しか投稿できないので、信頼できると思っていたのだが。

 

ハーバーランドとメトロこうべ、今昔

早朝のハーバーランドです

5月に日本へ一時帰国したとき、JR神戸駅近くのホテルに一泊した。普通なら実家に泊まるので神戸で宿を取ることなんてないのだけど、今回はやむを得ない事情があった。せっかくなので三ノ宮か元町あたりで泊まれたらと思ったが、直前の予約で空室のあるホテルがほとんどなく、あったとしてもかなり高額だった。夜11時に着いて翌朝8時にはチェックアウトする予定だったので、そのために金をかけるのも何だかアホらしくて、結局、例のJR神戸駅近くのホテルに落ち着いた。

日本へ来てすでに4日ほど経っていたが、まだ時差ボケが治っておらず、翌朝は5時前に目が覚めた(といっても、普段から5時半ごろには起きているのですが)。前日コンビニで買っておいたおにぎりや味噌汁やらで朝食を済ませ、早朝の散歩に出かけた。ホテルからちょっと海側へ歩けば、ハーバーランドだ。ちょっと潮の匂いを含んだ海風が心地よく(ちょっと肌寒いくらいだった)、神戸へ帰ってきたことを実感した。今、住んでいる米国の街には近くに海がないので、ときどき無性に海や海にまつわるあれこれ、例えばフェリーや霧笛やなんかが懐かしくなる。

考えてみると、ハーバーランドへ行くなんて何年ぶりだっただろう。近所の新開地や楠公さん(=湊川神社)へ足を運ぶことはあっても、ハーバーランドまで行くことは、近年ほとんどなかった。ハーバーランドって、いかにも若い恋人たち、若い家族連れをターゲットにしたお店が多くて、どこもちょっと敷居が高い。自分のような中年オヤジの一人歩きは、浮いてしまうような気がするのだ。しかし、その日は早朝だったので、開いている店はないし、釣り人と走り人をのぞいてほとんど誰もいないしで、変な劣等感や自意識(?)にさいなまれることなく、快適に散歩できた。

それにしても、この30年ほどでJR神戸駅周辺はすっかり様変わりした。神戸市内の中でも最も変貌した風景のひとつではないだろうか。僕がまだ小さな子どもだった時分、ハーバーランドなんていう立派なものはまだなかった。神戸駅といえば、元町商店街と元町高架下(モトコー)の最果てで、めぼしいランドマークはなくて、三ノ宮や元町のようにわざわざ出かけていく場所ではなかった。雰囲気としては、どちらかといえば、新開地の延長みたいだった。神戸の中心駅であるはずの神戸駅はなぜかくも廃れているのか、と子供心に不思議だった(色々な歴史的理由で、戦後、神戸の中心が東へ、つまり、三ノ宮へ移ったことは、もっと後になって学ぶことになるのだが)。

が、1992年、神戸駅の海側、貨物駅と工場の跡地にハーバーランドなるものができた。僕はまだ大学生で、まだオープンして間もない9月のある土曜、ちょっとデートみたいな感じである女性と初めて訪れたのだが、あのときのことは今でもよく覚えている。レンガ倉庫街やモザイクを歩きながら、新開地や神戸駅のすぐそばにこんな洒落たものができたのか、この辺りもこれからどんどん発展していくんだな、とけっこう感動ものだった。

あれから、バブル経済が弾けて、震災があって、日本経済が停滞して、人口減少が始まって、と神戸にとっては受難の時代であったが、神戸駅及びハーバーランドは、紆余曲折を経ながらも、三ノ宮、元町に次ぐ第3の都心の核としての地位を維持しているようだ。神戸を愛する自分としては、これは素直にうれしい。

ハーバーランドの繁栄ぶりと対照的なのが、メトロこうべだ。これは、JR神戸のすぐ山側にある高速神戸駅から新開地駅まで続く地下街。こちらは、僕の大好きな新開地に直結しているので、一時帰国するたびに歩いているが、往年と比べると随分さびしくなったな、というのが正直な感想だ。新開地と高速神戸、それぞれの駅周辺は今でもそれなりに賑わっているが、その中間の地下道は、改修が施され以前のような薄暗さがなくなったとはいえ、卓球場を残して何も残っておらず、もうこれは「地下に敷設されたただの通路」と呼ぶしかない。僕が子供の頃は、この地下道には古本屋がたくさんあって、本好きだった父に連れられてよくここへ来たものだが、今はその面影すらない。

このブログは、神戸と阪神間が好き、日本が懐かしいみたいなことを徒然に書き連ねるのが目的で、行政に苦言を呈したり提言を行ったりする意図は全くないのだけど、神戸の中心部、すなわち、中央区及び兵庫区には、メトロこうべに限らず再開発から取り残されてしまったような場所がけっこうある。しかし、メトロこうべなんて、新開地、高速神戸、JR神戸に近接する交通至便な場所で、しかも、新開地からハーバーランドまで1キロ以上に渡って続く地下街の一部なのだから、商業施設に対する潜在的需要、大規模な再開発の余地はたっぷりあると思う。神戸では今、三ノ宮への一極集中が急速に進んでいるようだけど、メトロこうべのような場所も忘れないでほしい。と、まぁ、これは新開地好きの中年オヤジの独り言です。

現在のメトロこうべ

 

四谷・鈴傳で十四代を飲む

四谷の駅から新宿通りを四谷三丁目へ向かって歩き、左へちょっと折れたところに鈴傳(すずでん)という酒屋があって、そこには角打ちができる「スタンディングルーム鈴傳」が併設されている。東京のど真ん中にいるのを忘れてしまうほど安価で色々なお酒が楽しめるので、四谷に泊まっている間は何度か足を運ぶのが常となっている。今回は、合計10日ちょっとの四谷滞在中4度も行ってしまった。もっと色々な場所を開拓せねばとも思うのだが、自分の性質上、目新しさや珍しさよりは慣れ親しんだ心地よさをついつい優先してしまい、同じ場所に何度も通ってしまう。これは、大阪でも神戸でも同様だ。

いつもは一人でふらっと行くことが多いのだが、今回はとても懇意にしている年下の友人Kちゃんに誘われて、ここで「十四代」を飲んできた。彼に教えてもらうまで全然知らなかったのだが、「十四代」は日本でとても人気のお酒だとか。これが鈴傳で飲めるのは水曜と金曜のみで、一杯1200円、一人一杯限り。「十四代」のどの種類のお酒だったかはちょっと忘れてしまったが、ふわっと口中に広がるフルーティで甘い味がとても印象深かったので、おそらく吟醸酒あたりだったのではと推測する。

二人とも、まずは「十四代」をそれぞれ一杯ずついただき、その後は、別のお酒をまた一杯ずつ、そして、しんみち通りの居酒屋へと場所を移して飲み直した。パンデミックによる中断があったとはいえ、一時帰国するたびに会っているので、考えてみると、彼との友情(?)ももう6年目に突入だ。過去半世紀の人生においては、様々な人たちが様々な理由で(あるいは、これといった理由もなく)自分の前から消えていったが、逆に、Kちゃんの場合のように、予期せぬ邂逅が思いもかけず長続きしていることもあって、年を取るのは悪いことだけではないなと思う。

おっと、鈴傳とお酒の話でしたね。今日言いたいのは、本当に単純なことで、鈴傳のような立呑みとか、あと、大阪の日本橋でよく行く初かすみのような大衆酒場とか、日本の都市部には気軽に、しかも良心的な価格で酒を飲んで、美味しいものをあれこれつまめる場所がたくさんあっていいよな、ということ。

もちろん、僕の住む米国にも酒を飲む場所はたくさんある。それは、スポーツバーだったり、ビストロだったり、ダイナーだったりするわけだが、昨今の異常な物価高もあって、一杯10ドル(つまり1400円)以下で飲めるところなんて、都市部ではほとんどない。何か簡単につまみたいと思っても、日本の「酒の肴」とか「おつまみ」、スペインの「タパス」みたいな、小皿でちょこっと食べるという習慣がこの国にはない。”Appetizer”(前菜)というカテゴリーがおそらく一番「酒の肴」に近いが、これは一皿でけっこう腹が膨れてしまうし、こちらも一皿10ドルはくだらない。ワイン2杯飲んで、前菜一つ食べて最低でも30ドル、これに税金(州によって変わります)とチップ(最低15%)が加わると、合計40ドル(5600円)近くにはなる。物価高に応じて賃金・給料も上がっているとはいえ、ちょっと飲みに出て40ドルというのは、資本制の中であえぎ苦しむ自分のようなしがない賃労働者にとっては、けっこうな出費だ。

がんばって探せば、もっと気軽に飲める酒場は、どんな街にも必ずある。だが、そういうところは、治安も心配で、昼の明るいうちならまだしも、日が落ちてから、街の散策がてら出かけていこうか、という気にはならない。僕の住む米国東部のこの街にもやはりそういう界隈があって、夜はちょっと敬遠する。

もちろん、米国ならではの酒の楽しみ方もある。たとえば、こちらでは、クラフトビール、つまり「地ビール」生産が盛んで、街のいたるところに、レストランやバーを併設した醸造所がある。僕の米国での暮らしは20年ほど前にカリフォルニアから始まり、その後、中西部、東部というふうに、日本及び太平洋の近くに留まりたいという自分自身の欲望とは明らかに矛盾する東進の動きを重ねてきたが、これまで住んだ3つの州すべてが、クラフトビール醸造所数で全米十位以内に入っている。なので、実に多種多様なクラフトビール体験をさせてもらったし、一時期、けっこうハマっていたこともあった。

米国のいいこともちゃんと書いたので、再び日本の酒場の話。鈴傳に限らず日本の大衆酒場は、やはり落ち着く。何だか古巣に帰ってきたようで、Kちゃんのような気のおけない友といるときはもちろんだが、一人でいても孤独を感じることもなく、かといって過剰なサービスを押し付けられているような気になるわけでもない。親密さと距離感の絶妙な組み合わせが快適で、気持ちよくほろ酔いの気分を味わえる。少なくともその間は、労働生活にはつきものの気が滅入いるような懸案事項を脇に置いておいて、愉快なことだけを考えていられる。そして、何より、車の運転を心配せず心ゆくまで飲めるのがいいですね。

これは、日本に着いた当日、一人で出かけていったときのものです



 

さよなら日本、また会う日まで〜2023年夏〜

日本への一時帰国がついに終わり、帰りの飛行機でこれを書いている。3週間ちょっとの滞在だったが、いつものことだが、あっという間だった。今回は、来日初日からぎっしり予定を入れすぎており、その疲れが出たのか、大阪滞在中に体調を崩してしまい、北浜のホテルで丸2日間ダラダラしていた。入れていた予定も泣く泣くすべてキャンセル、近くのフレスコで食料を調達したり、天満橋あたりまで散歩したりする以外は、ホテルにこもって、読書、食事、昼寝の繰り返しだった。今回は、大阪にいる間に久々の京都行きも予定していたのだが、無念なことにそれも中止とせざるを得なかった。ま、こんなことでもない限り、好きな本を読みながら一日中のんべんくらりすることなんてないので、これも怪我の功名ということで、良しとせねば。

3週間も旅をしていると、当然疲れもたまってきて、早く自分の寝室のベッドで眠りたい、慣れ親しんだいつもの朝食を食べたい、そして何より、我が家の柴犬くんをこの手でぎゅっと抱きしめてクンクンと匂いをかぎたい、という気持ちがだんだんと強くなってくる。ただ、やはり、日本滞在が終盤に入ると、名残惜しさや不安や未練やなんかがグチャグチャに入り混じった感情に心が支配される。今日、日本を離れてしまえばもう二度と戻ってくることはできないんじゃないか、という根拠のない恐怖が湧き上がってくる。したがって、日本を去る日の精神状態は、毎度のことながらあまり芳しくない。

それにしても、自分は一体何を求めているのだろうとしばしば自問する。米国ではそれなりに安定した仕事と生活を手に入れ、家族にも恵まれている。自分の能力なり素質なり努力の度合いなりを考慮するとき、経済的にはほぼ満足しているし、もうこれ以上は望めないだろうと理解もしている。また、米国は、外国人に対してとても寛容な社会で、それには非常に感謝している。もし米国ではなくどこか違う外国で就職していれば、過去20数年の僕の人生は、もっと困難なものになっていたかもしれない。

ただ、日本を去るときに感じる、何か自分のとても大切な一部を引きちぎられ、それを置き去りにしなければならないような感覚は、渡日〜米国への帰国という過程を何度経験しても変わらない。

僕は別に国粋主義者でも愛国的ナショナリストでもないので、イデオロギー的に日本を愛しているわけではなく、ここで僕が言わんとしているのは、日本での何気ない日常––ちゃんと時間通りに来る電車や、気軽に一杯できる立ち呑み屋などなど––とその日常に暮らす僕が大切に思う人たちのことだ。自分がその日常の風景の一部になれないことに、強烈なもどかしさを感じる。こういった感情というのは、おそらく、自分の生まれ育った国を出て海外で生活する人の多くに共通するのだろうが、彼らはそんな感情とどう向き合っているのだろうか。もうすぐ50になるというのに、「知命」はおろか「不惑」にすら達していない自分だ。

写真は、今回の日本滞在中に訪れた東京は柳橋界隈。最寄り駅は、JRの浅草橋。神田川と隅田川が合流するあたりに柳橋という橋がかかっており、それが知名の由来だ。その昔、けっこう大規模な花街があったらしい。幸田文の『流れる』では、戦後初期、花街が繁栄していた当時のこの界隈の様子が描かがれている。今は普通の住宅街なのだが、それでも、神田川に浮かぶ尾形船なんかを見ていると在りし日の面影がなんとなく伝わってくる。この日は、入梅前のからりと晴れた涼しい日で、普段米国で「歩く」という行為から遠ざかっている自分でも、どこまでも歩いていけそうなそんな気持ちのいい日だった。

大阪では、街の中を流れる大小様々な川とそれらに架かる様々な橋が「大阪的」な都市風景を形作っていて、僕が淀屋橋〜北浜〜天満橋といった界隈を愛する理由もその辺りにある。東京の場合、新宿、渋谷、池袋といった繁華街のある西側には川も橋もあまりないが、東側に行くとたくさんあって、大阪を思い出させる。

ま、いずれにせよ、僕が米国にいてたまらく懐かしく思うのは、東京にしろ大阪にしろ神戸にしろ、思い立ったらふらっと出かけていき、街歩きを楽しみ、帰りにビールでも一杯飲んで帰る、というそんな風な日常だ。日本に住んでいる人たちにはどってことない日常なんだろうけど、僕にとってはとても貴重な、そしておそらくもう二度と取り戻すことのできない日常だ。

 

元町商店街と丸善の思い出

JRの元町から鯉川筋を海に向かって南へ歩いていくと、左手(つまり東側)には大丸が、右手(つまり西側)には元町商店街の入り口がある。元町1丁目交差点のこの辺りは、港町神戸の中でも最も神戸らしい風景のひとつだと思う。

元町は、子供のときから僕の大好きな場所で、その名を聞くだけで、あるいは、頭の中に思い浮かべてみるだけで、何だか胸をぎゅっと締め付けられるような、まぶたの奥がじんと熱くなるような、激しい懐かしさに体中が包まれる。

メリケンパークと元町高架下については以前書いたので、今日は、元町商店街の話をしてみようと思う。元町商店街は、元町1丁目の交差点を起点とし、6丁目、つまり、JRの神戸駅あたりまで続くけっこう長い商店街。ほぼJR神戸線の線路、つまり、元町の高架下商店街と並行して東西に伸びている。現在の神戸の経済的・人口学的状況を反映して、三宮に近い東側は一日中人の流れが途切れることがないが、西、すなわち、神戸駅の方へ行くに連れて人通りがまばらになる。

 

seisoblues.hatenablog.com

 

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中学生の頃から、つまり、今から30年以上も前、一人で三宮・元町界隈の探索を覚えた僕にとって、元町商店街はお気に入りの場所のひとつだった。若者向けの店が多くとても活気のあった三宮のセンター街(当時は、「男館」やら「女館」、「JOINT」などダイエー系列の店がたくさんありました)に比べると、こちら元町商店街はもう少し落ち着いた、近代神戸の歴史が凝縮されたような年季の入った店が多く、ここを歩いていると何となく自分も大人になったような気がした。

数ある店の中でも、丸善へは足繁く通った。元町1丁目の交差点から商店街へ入ってすぐのところに、丸善はあった。20年ほど前に閉店してしまったのだが、自分の記憶に間違いがなければ、今、マツモトキヨシがある場所だ。

元町の丸善は、洋書の品揃えの豊富さで有名であったが、英語を勉強し始めたばかりの中学生の若者が、米国や英国からやってきた小説や雑誌を読んでも到底理解できるはずもない。装丁の美しい本を手にとって眺めながら、こんな本をいつか読めるようになりたいなぁと夢想するのが精一杯だった。

その後、大学生になり英語に加えて他の外国語も勉強するようになったのだが、それに伴い知的好奇心もますます盛んになり、また、日本の優れた高等教育(?)のおかげか、自分の外国語能力も少しは上達して、辞書の助けを借りながらとはいえ、英語、そして当時学んでいた外国語で書かれた小説や学術書が何とか自力で読めるようになった。そうなると、丸善へ通うのもさらに楽しくなり、以前にもまして頻繁に訪れるようになった。

あと、丸善の一階(確か一階だったと思う)は、高級文房具や上品な革製品なんかも豊富に取り揃えていて、できる大人の男はこういうものを使うんだ、と幼き僕の憧れを強烈に刺激した。店にあるもの全てをを丸ごと自分のものにしたい(笑)、そんな欲求だった。随分後、相方と知り合ってから、彼がこの店で買った黒革の財布をくれたのだが、これは本当に重宝していて、20年以上経った今でも現役だ。今でもこの財布をズボンのポケットから取り出すとき、丸善や元町商店街のことが頭に浮かぶ。

しかし、大学を卒業して数年経った頃、おそらく2000年代のはじめ頃から、丸善通いが極端に少なくなっていった。アマゾンの登場だ。それまで入所困難だった英語の書籍が、ここならほぼ何でも手に入り、しかも郵送料も手頃で数日のうちに配達される。当時のアマゾンは、今のそれとは比べ物にならないほど小規模だったが、それでも、家にいながらにして英語の書物を検索・注文し数日で手に入れることができる、というのは画期的かつ革命的だった。

ちょっと調べたところ、丸善閉店は2003年。つまり、アマゾンやその他のネット書籍販売サイトが成長し始めた頃だ。当時存在していた丸善のような洋書取り扱い店のビジネスというのは、一般の消費者にとっては洋書の入手が非常に煩雑で困難だという事実の上に成り立っていたが、アマゾンの登場によってその事実が根底から覆されてしまったわけで、そうなると丸善の相対的希少価値は必然的に低下せざるを得なかった。もちろん閉店の裏には、僕のような一介の消費者が感知せぬような複雑な事情があったのだろうが、ネットの書籍販売サイトの興隆が一つの理由であったのではと察する。

ネットで様々な種類の買い物ができてしまう現在が、自分の幼かった頃とは比べられないくらい便利であることは、疑いようのない事実だ。実際、異国の地に長く暮らす僕は、ネット販売の恩恵をもろに享受している消費者の一人だ。アマゾン・ジャパンや楽天で日本語の本やなんかを注文すれば、1週間もしないうちに自宅に届いてしまうのだから。

しかし、僕は、思春期から青年期にかけて、元町商店街や高架下の街歩きを通じて得た数々の「発見」を今でも懐しく思う。丸善や海文堂で表紙だけに魅せられて買った小説がこの上なく面白かったこと、ふと迷い込んだ路地で素晴らしいセコハンのレコード屋を見つけたこと(昔は、元町にも三宮にもちょっと薄暗い路地がたくさんありましたからね)、くたびれて何気なく入った喫茶店が思いのほか居心地がよかったこと、などなど。当時は、ネット販売もソーシャルメディアもなかったからこそ、街歩きには思いもかけない発見とそれに伴う高揚感・達成感がつきものだった。

こんなことを書きながら、最近の自分がいかにネットでの買い物に依存し、いかに街歩きの「発見」から遠ざかっているかを実感した。あと10日もしないうちに、また日本を訪れる予定なのだけど、今度はゆっくり元町商店街を歩いてみようと思う。ネットで下調べなどせずに、気の向くままに、風まかせに。新たな「発見」、あるかな?