歳月列車

米国での日常、そして、忘れえぬ日本の思い出

過ぎゆく夏、パシフィック・コースト・ハイウェイ

晩夏だ。神戸も大阪もまだまだ暑いようだが、僕の住むこの米国東部の街は、暑さが少しではあるが、やわらぎつつある。朝晩は20度を切ることもあって、これだけ涼しいと柴犬くんも元気で、機嫌よく散歩に行ってくれるので、こちらもうれしくなる。

6月に日本へ行ったとはいえ、7月と8月は普通に労働していて、しかもかなり忙しく、よって何か特別なことをしたわけではないので、夏が終わったからといって何かが劇的に変わることはない。だけど、夏が去っていくのはやはりどこか寂しい。いつもの日常が戻ってくることを悲しみ、夏の休暇の始めへ時計を巻き戻したいと願った少年の頃の記憶が、今でもしっかり残っているせいだろうか。

15年ほど前、まだサンディエゴに住んでいた時分、夏の終りのちょうどこの季節、相方と二人で北カリフォルニアはモントレーまでの往復ドライブをした。ロサンゼルスは二人とも大好きで、それまでにも何度も訪れていたが、カリフォルニアの北部はサンフランシスコ以外は行ったことがなかったので、ちょっと遅い夏の休暇を利用して、カリフォルニアをもっと探索してみようということになったのだ。

カリフォルニアは、全米50州の中では、アラスカ、テキサスに次ぐ第3位の面積を擁する巨大州だ。最南端のサンディエゴから北部のモントレーまでは片道700キロ以上、大阪からなら東京を通り過ぎて福島のいわきあたりまで行けてしまう距離だ。この行程を、途中いろんな場所で道草を食いながら、4日か5日かけて往復した。これは、車の運転が嫌いという、アメリカで生存していくに全くふさわしくない性質を有している僕がこれまでに経験した唯一の「ロードトリップ」だ。

結果として、この「ロードトリップ」はとても思い出深いものとなった。 南北カリフォルニアをつなぐ高速道路、いわゆる「パシフィック・コースト・ハイウェイ」は海岸線に沿って敷設されていて、そこでは、カリフォルニアの大自然がたっぷり堪能できる。朝方の濃い霧に包まれた砂浜、真っ青な空に下にそびえる断崖、太平洋の彼方に沈みゆくオレンジの太陽、もう、どれをとっても「絵になる」風景ばかりで、僕も相方も、美しきカリフォルニアにうっとり魅了されてしまった。

特にセントラルコーストの「ビッグサー」と呼ばれる地域は、海岸のすぐそばまで山が接近している景勝地で、今だ手つかずの自然が残っていた。そこで、色とりどりの花々の中をハチドリが飛び回るさまを見たときは、もし楽園というものをこの世に作るなら、これこそ格好の場所ではないだろうかと思った。

旅の最終日、サンディエゴに帰り着くちょっと手前、カールスバッドという海沿いの小さな町で車を止めた。家に帰っても冷蔵庫は空っぽなので、ここで夕食を済ませようと、僕たちのお気に入りのフィッシュタコスの店でテイクアウトして、日没どきの浜辺へと繰り出した。乾いた涼しい潮風に吹かれながら食べるフィッシュタコスは、夕日を浴びてオレンジに染まっていて、まるで初めて食べるごちそうのようだった。

僕は、仕事の関係でその数週間後から、東京に長期滞在することになっていた。カリフォルニアの海ともしばしのお別れやなと相方と話しながら、薄暮の迫る浜辺をそぞろ歩く人々を眺めていると、それまでの数年間のサンディエゴでの思いと思い出がどっと心に溢れてきてちょっと胸が熱くなった。カリフォルニアを去るのは名残惜しかったが、東京での生活は楽しみであったし、何より、夏の終わりのひと時をかくも美しい場所で過ごすことができたのはとても幸運であった。

あの夏のロードトリップは、今でもこの季節になるとしばしば思い出し、カリフォルニアのさらっとした空気の肌触りや潮風の匂いを懐かしんでいる。

 

神戸、1993年の寒い夏

最近は地球温暖化の影響もあって、毎年夏が異常に暑い。僕の住む米国東部の街でも、35度くらいまで上がる日がけっこうあって、そういう日は心も体もげんなりしてしまうし、我が家の柴犬くんも散歩に行ってくれない。しかし、ここに長く住んでいる人に聞くと、昔はもっと涼しかったらしい。それは、日本も同じで、今、真夏の神戸なら35度でもそれほど驚かないが、僕が子供の時分は、30度くらいでも暑い暑いと文句を言っていた。僕の育った町は、当時はまだ開発途上で近くに自然がたくさん残っていのたで、熱帯夜というのがほとんどなく、夜はひんやり涼しかった。と、こんな話を、6月に一時帰国した際、母としていたのだが、そのときに、1993年の夏の話になった。

あの夏は、今ではちょっと想像できなくらいの冷夏だった。雨と曇りの日が多く、気温が上がらず、一体いつ梅雨が明けて夏が来るのだろうと思っていたら、9月になって秋になっていた、という何だか張り合いのない夏だった。日照時間が短かったせいで米不足になり、日本社会がパニックになったのもこの年だった。

この夏のことは、とてもよく覚えている。当時、僕は大学生で、ちょうどその年の春、バイト代や小遣いを貯めて日産の中古車を買っていた。夏になったら、この車で海へ行こうと楽しみにしていたのだが、友人やバイトの仲間なちと海行きを計画しても、どんより曇り空だったり、雨が降ったりで計画変更を余儀なくされることが多く、冷夏がうらめしかった。

それでも、暇は見つけては、須磨や舞子、明石の江井ヶ島(これは、島ではありません)、ちょっと遠出して、姫路の的形(「まとがた」と読みます)まで出かけていったりしていたのだが、あの夏はどこの浜辺へ行っても人が少なく、また海の家が出ていないことも多く、あまり夏を満喫できる雰囲気ではなかった。一度、地元の友人二人と連れ立って舞子へ行ったとき、ついた途端に雨が降り出し、嵐の様相となり、へたれの僕はもうそこで海へ入ることは断念した。が、友人のひとりは、せっかく来たのだからと、僕たちに傘をささせて水着に着替え、嵐の中、果敢にも水の中へ入っていったが、3分ほどでブルブル震えながら出てきて、3人で大笑いした。

と、まぁ、こんなふうに1993年の夏は、決して理想的な夏ではなかったのだけど、僕はあの夏――日産のポンコツ車、くすんだ灰色の空、雨のしとしと降る浜辺などなど――を今でも時々懐かしく思い出すときがある。というのも、今から振り返ると、あれが自分の人生において、たいした心配事もなく安穏と過ごすことのできた最後の夏だったからだ。その後は、大学での学業にもう少し真面目に取り組むようになったり、私生活でも多くの変化があったりと、夏休みといってもあまり遊んでばかりもいられなくなった。それにともなって、交友関係も変わっていった。また、大学の卒業が近づいてきたこともあり、将来の身の処し方を真剣に考えることも多くなった。

その頃から、すべきこと、考えるべきことが次から次へと立ち現れてきて、常に時間に追われているような、常に何か心に引っかかっているることがあるような感覚にとらわれ、その感覚は今でもずっと続いているような気がする。もちろん、愉快なこと、面白いことは、あの夏以降もたくさん体験してきたけど、何をしていても、より現実的でより冷静なもうひとりの自分ががちょっと離れた所から僕をじっと見ているようで、何かを100パーセント心から楽しむということは、ほとんどなくなってしまった。早い話、あの夏に思春期が終わり、苦しきこと多かりし大人の季節がやってきて、それまで苦労も努力もなく維持してきた無邪気な感性みたいなものを永遠に失った、ということだと思う。

それにしても、大学生になるまで、経済的な憂いもなく、のほほんと思春期を過ごすことができたのは、ひとえに両親のおかげであり、その後はいろいろ理解し合えない出来事があり、常に良好な関係だっとは言えないものの、二人にはとても感謝している。

ワシントンで帰宅困難者となる

私用でワシントンDCに行った。たいていは車で行くのだが、今回は一人だし、先の日本滞在中に列車旅の良さを再確認したこともあって、アムトラック(Amtrak、アメリカの国鉄です)で行くことにした。

気軽な日帰り旅のつもりで、朝、家を出、ワシントンで用事を済ませて、昔の同僚と早めの夕食を取り、さて帰ろうと、ユニオン駅へ行ってみると、ほとんどの列車が遅延か運休になっている。ちょっと前に夕立があったのだが、そのときの雷が原因で停電が起こり、ワシントンとその近辺にいる列車がすべて立ち往生しているらしい。自分の乗るべき列車も、「Delay(遅延)」となっているが、どのくらいの遅延かは全くわからない。窓口で聞いても、知らん、新しい情報が入れば電光掲示板に出るから、それを待っていろと、おざなりの返答だ。こういういい加減さは、非常にアメリカ的だ。

この時点で、我が家へ帰ることはきっぱりあきらめた。遅延、遅延、と待たされた挙げ句、結局は運休になることが予想されたからだ。こんなとき、日本なら、鉄道会社が代替輸送の手段を確保したり、乗客の方も鉄道会社から何らかの助けがあるのを期待するのだろうけど、アメリカの場合、公共の交通機関に対する信頼がそもそも著しく低いので、こんなことになっても、皆けろっとしていて、全然悲劇的ではなく、あ、そう、という感じで、すぐにあきらめて駅を後にしていく。

そんなわけで、自分も帰宅困難者になってしまった。アメリカに来て初めての体験だ。車で来なかったことが悔やまれた。しかし、家には相方がいるので、柴犬くんの心配をする必要はない。心を切り替えて、ワシントンで一泊することにした。まず、スマホでホテルを予約した。ユニオン駅の構内には、ユニクロがあるので、ここで下着とTシャツを購入(これは本当に助かりました)、地下のドラッグストアで、コンタクトの洗浄液や歯ブラシやなんかも買って、地下鉄でホテルへ移動した。現在のアメリカの都市部の物価上昇は異常で、ホテル一泊、税込で300ドル近くもして、予期しない出費となった。

ま、そこは悔やんでも金が戻ってくるわけでもないし、せっかくの金曜でもあるので、ホテルにチェックインしてから、またちょっとお出かけして、近所のバーで軽く飲んでから、部屋に戻り、持ってきていた本を読んだり、「ふきのとう」を聞いたり、北浜と四谷の定宿を思い出したりしながら寝落ちした。翌朝は、相方おすすめのカフェで朝ごはん食べて、涼しいうちにホテルの近所を散歩して、部屋に戻って二度寝して、昼すぎの電車に乗って帰宅した。帰りの電車も、また「遅延」だったのだが、20分程度の遅延であったし、アムトラックに遅延はつきものなので、それは想定済みであった。

こういう体験は、できればもう二度とごめんだが、思いもかけず、丸一日以上仕事から強制的に切り離され、ラップトップも開けず、Eメールに返信もせず、ダラダラすることができたのは、怪我の功名というべきかもしれない。ま、こういうポジティブな考え方をしないと、予期せぬことの多い異国暮らし、やっていけませんからね・・・。

 

亡き父のこと、神戸湊川のこと

2年5ヶ月ぶりの一時帰国から米国に戻ってきて、もうすぐひと月になるのだが、いろいろ思うところがあり、それらの感情とどう向き合えばよいのか分かりかねる時がある。夕方、少なくとも5時までは普通に仕事をしていて、それは、精神の集中というか、自分の社会的な存在意義の再確認というか、そういう意味においてはとても重要なのだが、夜、夕飯を済ませ、柴犬くんの散歩も済ませ、ぼーっとお酒を飲みながら好きな音楽を聞いている時など、それまで抑えていた様々な感情がどっと押し寄せてきて、ちょっと戸惑ってしまう。

そんな時に絶えず思っているのが、父のことだ。このブログでも何度か書いたが、父はもうこの世にはいない。2年ほど前にあっけなく亡くなってしまったのだが、ちょうどコロナで国境がほぼ封鎖されている時であったので、帰国はあきらめ、先月の日本行きが、父の死以来初めての一時帰国だった。

これも以前書いたが、父の闘病、入院、死、葬式(といっても、コロナの第○波とかいう時期だったので、家族だけで簡単に済ませたのだが)まで、すべて遠い海の向こうで起こり、自分がその過程に積極的に関わることができなかったので、父の死を事実としては認識していても、あまり現実感がなく、父が実は長い長い海外出張にでも行っているような、たくさんのお土産を抱えいつかふらっと帰ってくるような、そんな幻想が頭のどこかにあった。

 

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実家へ帰り、仏壇を見、遺影写真を見、父が生前使っていた、今はガランとして部屋を見ると、そんな幻想は吹き飛び、父の死という動かすことのできない現実に強力なパンチを食らわされたような気になった。

それから僕はずっと思っている。2年5ヶ月という間日本へ帰らなかったことで、何かとてつもない大きな間違いを犯してしまったのではないか、と。父の死目には間に合わなかったとしても、もう少し早く日本へ帰り、残された母を手伝うなり、そばにいて母の気持ちに寄り添うなり、そういったことは可能だったのではないか、と。日本へ帰らなかった2年5ヶ月の間に失ったのは、実は、父だけではなく、他にもまだたくさんあるのではないか、と。こういった、おそらく悔恨とか悲嘆と呼ぶべき感情が次から次へと押し寄せてきて、それは、米国へ帰ってきた今でも続いている。

一時帰国中、例によって例のごとく、湊川を歩いた。湊川の東山商店街を抜けてちょっと行った先に、父方の祖父母が住んでいたので、この辺りは、本当によく父と歩いた。この辺りを歩いていると、過去の様々な映像が悲しいくらいの鮮明さで蘇ってくる。小さな路地を入ったところにおじさんが一人でやっている小さな串カツ屋があって、駅から祖父母の家へ行く途中、そこで一休みして好きな串カツを一本食べさせてもらうのが、楽しみだったこと。電車の中で読んでいたコロコロコミックが重くて、父が持ってくれたこと。父のくれたクイッククエンチのレモン味のガムを噛みながら、この商店街を歩いたこと、などなど。

東山商店街以外にも、湊川商店街、パークタウン、湊川公園などなど湊川界隈はほぼすべての場所に何かしらの思い出がある。そこかしこに父と祖父母の面影がゆらゆら、ちらちらしていて、彼らが優しく手をふってくれているような気になる。これは、もちろん心地よい感覚には違いないのだけど、その一方で、僕を過剰に感傷的にさせてしまう。そんなときは、慣れ親しんだ神戸という場所ががこの上なく愛おしくなり、もうこの地には生活の基盤のない今の自分がたまらなくはがゆくなる。

僕の心がこういった感情に今支配されているのは、ひとえに、2年5ヶ月という長きに渡って日本へ帰らなかったことが原因だと思う。あまりに久しぶりの日本で、それにまつわる感情がうまく整理できていないのだと思う。なので、これは、もちろん時間が解決してくれるだろうし、また、以前のように定期的に一時帰国するようになれば、気持ちも落ち着いてくるのだと思う。というわけで、次は、年末の休暇に日本行きを目論んでいるのだが、航空券、高すぎ・・・。

 

ああ、高架下(神戸元町)

元町高架通商店街、モトコーは、JRの元町駅から神戸駅の間の高架下にある商店街。僕たちは、子供の頃は単に「高架下」と呼んでた。高架下といえば、JRの三宮から元町にかけての高架下にも商店街があるが、今日は、元町〜神戸の高架下の話。敗戦直後の闇市に起源を持つ商店街で、元町の方から1番街が始まり、7番街まで約1キロにわたって続く。

僕にとって高架下は、新開地と並んで、神戸の中でも最も神戸らしい場所のひとつで、そこには神戸の原風景がある。とにかく子供の頃から、ちょっとゴチャゴチャした都会的混沌、港町的エキゾチシズムを感じさせる場所が好きだったので、あれは確か14の頃、JR元町(ちょうど、国鉄からJRへ民営化されたころでした)の駅をちょっと西に行った高架の下に商店街があるのを発見したときは、興奮ものだった。当時は、もちろんネットやSNSなんてものはなく、どこに何があるのか、とにかく自分の足で歩いて探索するしかなかった。

三宮〜元町の高架下が多くの買い物客で賑わうけっこうメジャーな場所だったのに比して、元町〜神戸の方の高架下は、昼間でもちょっと薄暗く、人通りもまばら(この傾向は、西へ行くに連れて、つまり、神戸駅の方へ行くにつれてより顕著になった)、でもその分、気のいい地元のおじさんとかおばさんが趣味でやっているような個性的な店が多かった。セコハンのレコード店、古着屋、古本屋、中古の電器店、果ては、もうガラクタ屋としか呼ぶしかないような、古いカセットテープやら雑誌やら小物やらが何の脈絡もなく積み上げられて、その横で店番のおじさんがうとうと居眠りしているような店などなど。

これは以前にも何度か書いたが、僕は、高度成長期に量産されたニュータウンのひとつで育って、そこでは街歩きをして何かを「発見」するという経験が極めてまれだった。そんな僕にとって、高架下は完全な異世界であり、夢のような世界であった。そこへ行くと何かしら新しい「発見」があり、すっかり時間を忘れて、あ、もう晩御飯の時間やから帰らなあかんわ、ということがしょっちゅうだった。

高架下では、セコハンのレコードを物色するのに加えて、古着屋にもよく通った。30年以上前の当時は、輸入モノのリーバイスのジーンズがよく出回っていた。まだリーバイスが米国内で生産を行っていた頃で、今のリーバイスよりずっと高品質で、いい具合に色あせて、ちょっと穴があいたりしたのが最高に格好いいと思っていた(今、そんなのをはくとただの汚いおじさんになってしまいますけどね)。古着でも一本5000円以上したと記憶しており、これは、中学生とってはけっこうな値段だった。小遣いを一生懸命ためて、無数にあるリーバイス501の古着の中から好きな一本を選定するのは、大きな楽しみだった。そんなふうにして買ったジーンズは、とても大事にして何年もはきこんだ。

6月の一時帰国中、久々に高架下を訪れた。ほとんどの店はシャッターを閉めており、閑散としていた。ここの商店がJRから立ち退きを求められていることは知っていたが、すっかり活気を失った高架下を実際に自分の目で見るのは、やはり驚きであった。すぐれて神戸的な都市空間がこうしてまたひとつ消滅していくわけだ。

僕は、ユニクロも無印もニトリもスターバックスもサンマルクも好きだし、こういったお店がそれなりの品質のモノを安価で提供し、市場と消費の民主化に貢献していることも理解している。ただ、最近の日本の都市の駅前風景は、どこへいっても大資本のチェーンのお店に支配され、画一化がかなりのスピードで進んでいるようで、もし元町もそうなっていくとしたら、それはちょっと悲しいことのように思える。

 

思い出の塩屋

塩屋は、神戸市垂水区の海沿いの町。JRと山陽電車の駅が隣同士にある。JRは新快速はもちろん、快速も通過してしまう。神戸や明石以外の人にとってはあまり馴染みのある場所ではないと思う。

前回の日本滞在中、例によって例のごとく、湊川・新開地界隈をぶらぶらしているとき、そうだ塩屋に行ってみようと思いたち、新開地から山陽電車に揺られて行った。6月のあたまに日本へ発つまでの数ヶ月、本当に仕事が忙しく、何も計画を建てず思いたって何かをする、ということが全くなかったので、こんなふうに、ふと頭に浮かんだ場所にふらっと立ち寄ることができる、夕方まで何も予定がないという単純な事実自体がうれしかった。

神戸へ帰ってきても、西側の須磨、垂水、明石方面へ行く機会がほとんどなく、よくよく考えてみると、塩屋を訪れたのもほぼ30年ぶりで、我ながら驚いてしまった。その30年の間、舞子ビラとか、垂水のアウトレットモールとか、明石の魚の棚とかには行ったんだけど、塩屋は素通りしていた。どちらかという地味な町ですからね。

が、僕にとって塩屋は思い出深い場所だ。大学の頃、とても仲良くしていた友人S君がここにアパートを借りていた。彼は、入学当時は春日野道に住んでいたのだが、数カ月後、どうしても海の近くに住みたいと言い出し、塩屋にアパートを見つけた。仕送りをしている彼の両親は、神戸の中心部にせっかく借りたアパートを数ヶ月で出るという息子の選択が理解できなかった(当然といえば、当然ですよね)。

S君は、両親を説得するため、そして、保証人の書類にサインをもらうため、実家へ一度帰ることにした。その旅には僕もなぜか同行し、彼の生まれ育った小さな町を一緒に歩き回った。

S君が塩屋に住むことを強く望んだ最大の理由は、彼の生まれ育った町は海から遠く離れた内陸の町で、海に対して強烈な憧れがあったことだ。確か海を始めてみたのは、10何歳かのころだと言っていた。そういったことを、彼の実家のある、川と橋の多いとてもきれいな町を歩きながら話してくれた。

それを聞いて、僕はとても驚いたのを覚えている。僕は、海のすぐそばで生まれ育ったわけではなかったが、物心ついたときから、須磨や江井ヶ島や淡路へよく行っていたし、母の実家が四国の海沿いの町だったので、そちらでも海水浴に頻繁に行っていた。狭く細長い日本、みな同じような経験をしているのだろう、と勝手に思いこんでいた。なので、S君の生い立ちを聞いて、少し大げさではあるが、少なからずカルチャーショックみたいなのを受けたのだ。

僕ももちろん海が好きで、海や港に対して強い思いがある。しかし、それは、あくまで自分の生活圏に普通にあるものとして憧れているわけだが、S君の思いは、長らく手に入らなかったものをやっと手に入れて、それを絶対に手放すまいとする感情に近かったようで、そう考えると、S君がなぜ塩屋にそこまでこだわったのか何となく分かるような気がする。

彼の選んだアパートは、塩屋の駅からけっこう遠かった。駅を山側に出ると、狭い小道が迷路のように入り組んでいて、小さな呑み屋や喫茶店や個人商店なんかがポツポツとあったのだが、そこを抜けて、15分以上も歩いた急な坂の上にそのアパートはあった。決して便利な場所ではなかったが、見晴らしは最高だった。

8月のとても暑いある日、S君は春日野道のアパートを引き払い、塩屋へ越していった。今は亡き僕の父がワゴン車を出してくれた。父とS君と僕、大人の男が3人いれば、ワンルームからワンルームへの引っ越しは何ということはなかった。

しかし、これは別の記事でも書いたが、S君との友情はその頃にはすでにほころびかけていた。引越しの後、塩屋のアパートへ1、2度遊びに行っただけで、僕たちは互いに「その他大勢の友達」の一人になってしまった。

30年ぶりの塩屋は、あまり変わってなかった。垂水や舞子が再開発で随分変わったのと対照的で、塩屋は今だ「海沿いの小さな町」的雰囲気を漂わせていた。

S君は、今では実家のある町へ戻って仕事をしている(らしい)。当然、海からは遠く離れている。S君、今でも海が好きで、またいつかは海の近くに住みたいと思ったりするのだろうか。

 

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さよなら日本、また会う日まで

今日の四谷

というわけで、日本滞在最終日。3週間はあっという間だった。今は羽田で搭乗待ちだ。

いつもデルタを使っているのだが、いつのまにか成田から撤退していて、今はすべてのデルタ便が羽田発着になっている。都心からは羽田の方が断然近いし、交通の便もよいので、これは歓迎すべきことなんだろうけど、僕は、けっこう成田(というか、成田へと至る道程)が好きだった。上野からの京成スカイライナーは、空港―都心間の輸送に特化しているので、ほとんど混むこともなく、広い座席で快適に成田まで出ることができた。

上野という空間も好きだった。今でこそ、長距離列車の終着駅としての機能はほとんどないが、それでも、JR上野駅の広々とした駅舎は在りし日の面影を残しているし、東北方面の行き先を電光掲示板に見ると、旅の情緒みたいなのが感じられた。ま、自分の場合は、東北ではなく、京成で成田へ行き、そこからアメリカへ帰るわけだが、上野にいると、日々東京を離れていく、あるいは東京へやって来る何千何万という旅人の一人なんだなぁ、とちょっと感慨深かった。

米国への帰国当日はちょっと早めに上野へ出て、スカイライナーに乗る前によく上野公園を散歩した。あそこは、上野という大都会のど真ん中にありながら、都会の喧騒からは隔絶されていて、いかにも「祭りのあと」という感じだった。不忍池のほとりをそぞろ歩いていると、いよいよこの旅も終わりなんだという実感が湧いてきた。ここで、日本にしばしの別れを告げ、再会を約束し、京成上野へ向かった。

今では、自分の生活の基盤が米国にあり、日本へ戻ることはもうない、という冷酷な事実とそれなりに折り合いをつけて生きているが、数年前まではまだ迷ったり悩んだりすることも多々あり、当時は、日本滞在の最終日に上野公園を散歩していると、胸が締め付けられるように悲しく、せめてもう1日、いや、もう半日、日本に残ることができればと願った。少々大げさだが、それは、恋人との久方ぶりの逢瀬のあと、再び引き離されるような感覚だった。

ま、何はともあれ、上野から成田へ至る道程には旅の情緒を醸造する雰囲気があったのだが、羽田の場合はそうは行かない。羽田―都心間の京急は、通勤・通学電車でもあるので、常時混み合っていて、大きなスーツケースを持っている自分の存在が申し訳なってしまう。また、上野と違って新橋や品川には旅の情緒も何もあったものじゃないし・・・。

そんなわけで、今日はタクシーで羽田へ来た。ここのところ殺人的な暑さが続いているので、タクシーの方が体力の消耗も少ないと判断した。定額タクシーなんていう便利なものがあることを今更ながら発見したし。

今回の日本滞在については追々書いていくつもりだが、久々の日本はやはりよかった。よく知った場所、新しい場所、けっこう歩き回った(めちゃくちゃ暑かったですけど)。長らく会えなかった人にも会えて、たくさんの元気と少しの自信をもらった。柴犬くんの待つ(待っているかな?)米国の我が街へ帰ることは、もちろん楽しみで精神的な準備もできているが、自分の人生の半分以上を過ごした愛しき日本を去る日は今でもちょっぴり辛い。僕の大好きな人たち、場所たちが、帰っておいでよ、と優しく手招きしているかのように、後ろ髪を引かれる思いだ。ま、そのような気持ちも、向こうへ帰って仕事が始まればすぐに忘れて、もとの日常に戻っていく、ということも長年の経験で知っているのだが。

では、日本よ、今こそ別れめ。いざ、さらば。また会う日まで。