歳月列車

米国での日常、そして、忘れえぬ日本の思い出

サンディエゴの思い出

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アメリカに暮らしてもう20年になる。初めてこの国へやってきた時は、まさかこんなに長居するとは思いもせず、数年したら日本へ帰るつもりでいたのだが、どこで何が狂ってしまったのか。今では、この浮き草的、根無し草的――五木寛之氏風に言えば「デラシネ的」ですね――生き方にも随分慣れ、それなりにいいところもあると自分を納得させてはいるが、今でも心は日本にある。

あれ、今日はこんな暗い話をするのが目的ではなく、渡米して最初に暮らした街、サンディエゴの話をするつもりなのだ。ここには良き思い出がたくさんある。サンディエゴは、ロサンゼルスから200キロ、車で3時間ほど行ったところにある、カリフォルニア最南端の大都市。人口は100万を超え、カリフォルニアではロスに次ぐ大きさだ。

2000年代初頭の8月の暑い日、僕は日本を後にした。当時とても懇意にしていた友人と三宮の交通センタービルで、神戸の街を見下ろしながら最後のランチを済ませ、その友人の車で関空まで移動。保安検査場の前でしばしのお別れをして、ロサンゼルスへ飛んだ。当時はまだ関空から北米諸都市への直行便がかなりあって、僕が乗ったのはタイ航空。ビジネスクラスが、昨今のエコノミー並の値段で買えた。

ロスでは、一足先に渡米していた相方と合流、アムトラック(国鉄のアメリカ版です)でサンディエゴに向かった。ロスの市内を抜けると、アナハイム(ディズニーランドのあるところです)、サンタ・アナ、アーバイン、とオレンジ郡の街々が続き、その後、列車は、海岸線に沿って南下していく。太陽の光を浴びてキラキラ光る青い海、果てしなく続く青い空という、憂いのかけらもない、どこまでも脳天気な南カリフォルニアの風景がそこにはあり、サンディエゴまで飽くことがなかった。

サンディエゴでは、友人宅に居候させてもらいながら、すぐに部屋探しを開始。アメリカでは賃貸住宅は、不動産屋を通してではなく、地域紙の広告欄を参照したり、あるいは、実際に住みたいエリアを訪れ「Vancancy(空室)」のサインのあるアパートに直接連絡を取ったりして探すのが一般的だ(少なくとも当時はそうだった)。我々も、自転車で街を走りながら、良さげな物件の管理人と直接話して即決した。当時のカリフォルニアは、賃貸料・不動産価格を含む物価がまだそれほど高騰しておらず、我々のような高給取りでもない普通の労働者が街の中心部に小綺麗なアパートを借りて住むことができた。アメリカの場合、保証金の上限が家賃の二ヶ月分と法的に決められており(普通はひと月分)、保証人制度なんてものはなく、アパートには冷蔵庫もオーブンもブラインドも備わっているので、寝具さえあれば、すぐに生活を始めることができ、そういう点でもとても気楽だった。

住居が決まったら、次は運転免許だ。百万都市といえども、アメリカの他の多くの都市と同様、サンディエゴでは公共交通機関がほとんど発達しておらず、ほぼ完全な車社会。車がないと生きていけない。まず相方が免許を取り車を買った(相方はアメリカ人だが、カリフォルニア出身ではないので、カリフォルニア州の免許を新たに取得する必要があった)。外国人の場合も、やはり居住する州で免許を取る必要がある。こちらでは、教習所に通う人はほとんどおらず、たいてい、免許を持っている両親や兄姉から運転を教わる。僕も相方に横に乗ってもらい練習をした。それまでは阪神間という交通至便な場所に住み、5、6年ほど運転から完全に遠ざかっていたが、練習するとすぐにカンが戻った。

試験は日本と同様、筆記と技能。予約なしで好きな日に市の自動車管理局へ行き、筆記試験を受けたい旨を伝えると、試験用紙とペンを渡され、その辺のベンチに座って解答を記入、その場で採点をしてくれて、合格ならすぐに技能試験の予約を入れてくれる、という何ともゆる〜いプロセス。試験の日には自分の車に乗って(日本では考えられませんね)、また自動車管理局へ。試験官を助手席に乗せて、運転技能を披露する。高速に入ったり、バックしたり、縦列駐車したり、とこれは日本も同じか。この技能試験に合格すると、免許発行の手続きへと進み、1週間位で郵送される。僕は、筆記も技能も何とか一回で通ったので運がよかった。免許取得までにかなりの時間と金がかかる日本と比べて、アメリカでは車の運転が生活の大前提なので、あっという間に、とても気軽に免許が取れてしまう。

車の運転を始めると、生活の質が断然向上した。南カリフォルニアの醍醐味ともいえる美しいビーチにも行き放題。南カリフォルニアでは、大小無数のビーチが何十キロ、何百キロとつらなり、海岸線を構成しているが、これらは車なしでは絶対に行けない。僕は、世界を貪欲に渡り歩く沢木耕太郎的旅行者でもなければ、アメリカン・エキスプレスの広告に出てくるような国際派ビジネスマンでもないので、僕の見た世界はたかが知れており、当然、比較の対象は限られているが、南カリフォルニアのビーチは、これまでの人生で見たものの中でも最も視覚的に美しいもののひとつだったと思う。白い砂浜に立ち、乾いた涼しい風に吹かれながら太平洋の彼方へ沈みゆく太陽を見ていると、短いながらも心地よい幸福感に包まれ、カリフォルニアに来た自分の決断の正当性を今一度確認することができた。

と、こんな感じで、僕のサンディエゴ生活は始まり、とても単純に、美しいこの街に恋をした。が、「三つ子の魂百まで」とはよく言ったもので、これだけ美しいものに囲まれてはいても、やはり、慣れ親しんだ新開地や元町の狭く小汚い通りを懐かしく思う気持ちは変わらないもの。渡米して約一年後、初めての長期休暇で日本へ一時帰国したのだが、阪急三宮の西口から街へ降りてきて、煙草と古い油と焼き鳥の混ざりあったようないかにも「都会の盛り場」的な匂いを嗅いだときは、あまりの懐かしさに涙が出そうになった。

ふむ、結局今日もいかに日本が恋しいか、という話になってしまった。。。

 

早春の東京を思う

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僕の住むアメリカ東部のこの街は、夏は長く蒸し暑く、冬は適度に寒く、気候的には関西や東京とよく似ている。2月はまだまだ冬だが、ときに寒さの緩む日もあり、今日、このブログの記事は、二階のバルコニーの椅子に腰掛けて書いた。頬に当たる風はまだ少し冷たかったが、太陽の光はぽかぽかとぬくく、そのまま昼寝したい気分だった。もう春間近で、普段それほど変化のない生活を送っているような僕でも、ほんの少しだが気持ちが浮き立つ。 我が家の柴犬くんとの毎朝・毎夕の散歩時、今日はもう一つ向こうの池まで歩いてみようか、という気にもなる。

仕事柄3月から4月は繁忙期で、この時期に日本を訪れることはほぼ不可能だ。最後に春を日本で過ごすことができたのは、もう14、5年前、幸運にも仕事で東京に長期滞在していたときだった。2月になると、沈丁花が上質な舶来石鹸のような匂いを運んで来て、梅の甘い香りがただよい、クロッカスが咲き、日差しがどんどん柔らかくなり、ついに桜の季節が訪れる。そんなことを思っていると、あの時住んでいた中野のマンションやら、外濠公園や新宿御苑の桜やら、中央線や丸ノ内線の駅々の映像が蘇ってくる。

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あの時の東京滞在は、10ヶ月に及び、生粋の関西人である自分には多くの見聞が実に新鮮で刺激的だった。春になってからは、滞在の終わりが近づいてきたこともあり、地下鉄の一日券を使い、暇を見つけては東京の街ーー中野・新宿近辺だけではなく、仕事関係でも友人・知人との交際でも訪れる機会のほとんどなかった東側ーーを貪欲に歩き回った。隅田川に沿った水際の風景を見ると、何となく大阪の淀屋橋・中之島界隈を思い出しほっとした。根津・谷中・千駄木では、東京の中心部にこんな古い面影を残す場所があったのかと驚いた。北千住は、安いお酒が気軽に飲めて重宝した。

当時は、仕事と人間関係のことでいくつかの選択を迫られており、ともすれば暗鬱な気分に陥ることもあったが、早春の日差しを受けながら、新しい場所を散策・開拓することは精神衛生上、非常に好ましかったように思う。もっと長く東京に住んでいたら、いろいろと嫌なことも目につくようになったと思うが、10ヶ月という限定された期間の滞在だったので、蜜月のまま、名残惜しい気持ちを抱いたまま東京に別れを告げることができたのは幸運だった。

冬の終わりから春にかけての、あの季節の移いゆくさまと、それにまつわる高揚感を日本でもう一度体験してみたいと思うのだが、僕がこのアメリカで今の仕事を続ける以上、それはおそらく叶わぬ夢のまま散っていくだろう。

 

お酒と演歌とカントリーミュージックと・・・

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日本の流行歌、特に演歌やムード歌謡の世界では、お酒を飲んだら昔を思い出して悲しくなって、というふうな、一人飲みの寂寥や憂いを歌ったものが実に多い。美空ひばりの「悲しい酒」なんて「ひとり酒場で飲む酒は別れ涙の味がする」と、冒頭からお酒飲んで泣く気まんまんだし、八代亜紀の「舟歌」も、「しみじみ飲めばしみじみと想い出だけが行き過ぎる 涙がぽろりとこぼれたら歌い出すのさ舟歌を」と、飲んで泣いて、そして歌う。内山田洋とクール・ファイブの「長崎は今日も雨だった」では、自分を捨てた恋人を長崎まで探しに来たが結局見つからず、「こころこころ乱れて 飲んで飲んで酔いしれ」ながら、「酒にうらみはないものの」と付け加える。日野美歌の「氷雨」では、やはり別れた恋人を思いやけ酒をあおり、「飲めばやけに涙もろくな」って、そのあたりで止めておけばいいのに、最後は「もっと酔うほどに飲んであの人を忘れたいから」と結ぶ。

僕が特に好きなのは、森進一の「盛り場ブルース」だ。この歌では、銀座、北新地、すすきの、天神など日本各地の盛り場を舞台に、「お酒飲むのも慣れました むせる煙草にあなたを思う」、「泣けぬ私の身がわりについだお酒がこの手をぬらす」、「グラス片手に酔いしれて 夢のあの日がお酒に浮かぶ」などなど、お酒によってもたらされる過去への激しい追憶の感情がこれでもかこれでもかと語られる。この過剰さが逆に気持ちよい。

アメリカではどうかというと、こちらにも悲しい一人飲みを描いた流行歌がけっこうある。これは、カントリーミュージックの世界で顕著だ。カントリーミュージックのジャイアント、ハンク・ウィリアムス(Hank Williams)の「There’s a Tear in My Beer」は、「There’s a tear in my beer cause I’m crying for you dear(僕のビールには涙が入っている、だって君を思って泣いてるんだから)」と始まる。これは、ひばりの「悲しい酒」と似ていなくもない。

コンウェイ・トゥイッティ(Conway Twitty)の 名曲「Asking Too Much of the Wine」では、恋人と別れて憔悴しきった主人公が次のようにワインに語りかける。

I’m asking for your help wine
To think that a glass could erase all my past
That’s asking too much of the wine
ワインよ、君の助けがほしいんだ
一杯のグラスが過去をすべて消してくれると思うなんて
それは君に期待しすぎだよね

そうそう、あと、ドワイト・ヨーカム(Dwight Yoakam)の「Two Doors Down」という歌もよい。題は「二つドアの先」、つまり「二軒先」という意味で、二軒先には、別れた恋人とよく行ったバーがあって、そこにはありとあらゆる思い出が詰まっているという、とても切ない歌。冒頭はこんな感じだ。

Two doors down there’s a jukebox
That plays all night long
Real sad songs
All about me and you
二つドアの向こうには、ジュークボックスがある
とても悲しい歌が一晩中流れている
僕と君のことだね

しかし、アメリカで実際に酒場に行くと、しみじみ一人飲みの客、というのは日本ほどいないような気がする。もちろん、酒場にもいろいろ種類があるが、一杯10ドル程度(1100円ほどですけど、アメリカではこれでも安いんです)で気軽に飲める街なかのバーとなると、たいてい大型テレビから野球やアメフトの中継が流れていて、最近の流行歌が大音量で流れていて、若者たちが大声で談笑しながら、クラフトビールとピザとフライドチキンを楽しんでいて、というようなバーが一般的だ。陽気でパーティー好きな国民性も関係しているのか、お酒はみんなでワイワイ楽しく飲むもの、という社会通念(?)あるいは人生哲学(?)が定着している。これは、ハンクやコンウェイより、むしろ森高千里が「気分爽快」で歌った「飲もう 今日はとことん盛り上がろう」の世界に近い。

でも、僕は、たまには一人でしみじみ飲みたい。演歌とは言わないまでも、カントリーミュージックが流れるバーで静かに飲みながら、神戸の甲南商店街や住吉川沿いの散歩道や六甲ライナーなどに思いを巡らせ、古き良き日を懐かしみたい。今、我々の住む家のすぐ近所には、ワイワイ・ガヤガヤ系ではない、少し落ち着いたバーがひとつあるのだが、それは、僕にとってとても幸福なことだ。こういった類のバーをさらに開拓すべく、街をぶらぶら歩いていて、狭い通りにちょっとひなびた、少々場末っぽいバーを発見すると試してみるのだけど、さびしそうな一人客が多く、バーテンダーが寡黙でという、「舟歌」に描かれたような酒場のアメリカ版はそう容易には見つからない。

新神戸と旅の思い出

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JR新神戸は在来線と接続のない新幹線専用の駅で、しかも、三宮・元町の繁華街から微妙に離れているので、ふらっと立ち寄ったり、という経験はあまりなく、僕にとっては、もっぱら長距離の旅の玄関口という意味合いが強い。なので、新神戸にまつわる思い出も何らかの旅と強く結びついている。

子供の時分は、毎夏この駅から広島県の三原まで新幹線に乗り、すぐ近くの三原港へ移動、そこからは国道フェリーで母方の祖母と叔母たちの住む四国へ渡った。1980年代といえば日本経済が繁栄を謳歌していた時代だが、中流の家庭といえども、海外旅行や長期の国内旅行にそう気軽に行けたわけではなかった。そんな中で、多くの子供たちにとって、おじいちゃん・おばあちゃんのいる「いなか」へ行くのは、夏の特別イベントの中でも最大級のものだったと思う。僕の育った町は、高度成長期に量産された典型的なニュータウンだったので、近所の友だちも、両親の少なくとも一方が四国、中国、九州の出身というのが多くて、お盆になると、みんな「いなか」へ里帰りしていた。

僕は若く優しい叔母たちが大好きだったので、新神戸から新幹線に乗って出かけるのを楽しみにし、毎年梅雨が開け夏が本格的に始まると、そわそわして心ここにあらず、という感じだった。しかも、僕の町は新幹線の駅からも線路からもかなり離れていたので、新神戸の駅で「ひかり」と「こだま」を見るという行為それ自体が興奮もののイベントだった。吉田兼好の言う「しばし旅立ちたるこそ、目さむる心地すれ」、すなわち、「しばらく旅に出ると、目が覚めるようなわくわく感がありますよ〜」の心境を僕は新神戸で体験していたということになる。

しかし、楽しみにしていた分、それが終わったあとの「祭りの後」的感覚は半端なく残酷かつ強烈なわけで、四国での滞在を終えて新神戸に降り立った時のあのどんより沈んだ気持ち、明日からまた普通の日常に戻ってしまうのだという嘆息は、この年になってもしっかりと記憶に刻印されている。

渡米してからは、新神戸への帰着はむしろ歓迎すべきイベントとなった。北米から関空への直行便がほとんどないため、日本訪問時はほぼ毎回成田か羽田を使っており、東京で少し(でも真面目に)仕事をした後、新幹線で神戸へ帰るのだが、新神戸のホームへ降り立つと、大好きな関西へついに戻ってきたという実感が湧き上がってきて、それは何度経験しても心地よい高揚感だ。で、お分かりのように、米国への帰国時、新神戸から東京行きの「のぞみ」に乗る時の気持ちは、これとは真逆で、新神戸への足取りは少々重い。

随分前、暮も押し迫った寒い朝、1週間ほどの関西滞在を終えて新神戸へ向かっていた。その時はいくつかの理由で関西を去るのが特に名残惜しく、三宮で所要を済ませた後、地下鉄で新神戸まで移動する元気もなく、JRの東口からタクシーに乗った。すると、ラジオのFM放送からユーミンの荒井由実時代の歌で、僕の大好きな「何もなかったように」が流れてきた。

昨夜の吹雪は 踊りつかれ
庭を埋づめて静かに光る
年老いたシェパードが遠くへ行く日
細いむくろを 風がふるわす
人は失くしたものを
胸に美しく刻めるから
いつも いつも
何もなかったように
明日をむかえる

生きていれば、歌舞歓楽、悲傷憔悴、孤立無援、どろどろドラマ、どきどきロマンス、はらはらアドベンチャーなどなど、ごった煮のごとくいろいろあるだろうけど、幾星霜経ってしまえば、「何もなかったように」みんな思い出の一頁になるよ、という「方丈記」的無常観をユーミン流の繊細な言葉で綴った歌だ。この歌が流れてきたのはもちろん全くの偶然だったが、なにか大切な必然のように感じた。新神戸までの5分ほどの短い道中、この歌を静かに聴いているうちに、自分をちょっと突き放して、少し冷静に遠くから見ることができ、不思議に心が休まった。今は、神戸にもう少し長くいたい、アメリカに帰りたくない、とグチュグチュ言ってるけど、ひと月もすれば、あの旅はよかったな、と懐かしく振り返り、記憶のひとかけらになってしまうんだ、と。

その後は、新神戸の駅で一貫楼の豚まんを買い、新幹線の中で昼食、食後の昼寝から目が覚めると終着東京。日本滞在の残りの数日を普通に楽しみ、米国へ帰ってきて「何もなかったように」元の生活に戻っていった。

 

大阪 キャヴァーン・クラブ

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ビートルズを本格的に聴くようになったのは、大学生になってからだった。以前にも書いたとおり、僕は、中学時代はサイモン&ガーファンクルや60年代アメリカのフォークソングに傾倒していて、高校に入ってからはビーチボーイズの『ペット・サウンズ』がお気に入り、それに加えて、ジャズなんかも聴きはじめて、でも、なぜかビートルズを聴き込むことはなかった。しかし、大学に入ったあたりから、ギターや他の楽器をやってる周りの友人たちが、ビートルズはやっぱりすごい、みたいなことを言いはじめて、なら、僕も聴いてみよう、となった。

結果はというと、世の多くの若者のごとく、僕も完全にノックアウトされた。『Please Please Me』や『With the Beatles 』のような初期の正統派ロックから、より内省的な『Help』、『Rubber Soul』などを経て、『Abbey Road』、『Let It Be』へ行き着く様は、壮麗な大河小説のようで、アルバイトで貯めたお金で買ったCDを初めてミニコンポのディスクトレイに入れる時は、ドキドキした。

ビートルズの個々のアルバムについては、いつか書くことがあると思うが、今日は、キャヴァーン・クラブの話。これは、大阪梅田にあったライブハウスで、ビートルズのコピーバンドが演奏していた(残念ながら2019年に閉店しました)。ここには、大学時代けっこう通った。中学のときから仲のよかった友人が三人いて、彼らは、みな実家を離れて大阪の大学に通っていたので、土曜の夜なんかに阪急のビックマンで待ち合わせ、そのへんの定食屋とか居酒屋で軽く腹ごしらえをした後、キャヴァーン・クラブへ出かけるというのが年に数回あって、ある意味僕たちの同窓会のような意味合いを持っていた。

梅田といっても、キャヴァーン・クラブがあるのは兎我野町。なので、阪急の駅からは、阪急ナビオ(今はHEPナビオですね)の北側の狭い通りを東へ向かい、新御堂筋を渡り、さらに南下しなければならず、徒歩で10分以上はかかったはず。こうやって、文字にして説明すると実に簡単そうな道程だが、地図上の平面世界と実際の三次元世界とは全く別物で、こと梅田に関してはこの差が顕著だ。僕はそれまで神戸三宮が日本一の都会だと思って育った純粋無垢な少年だったので、大阪梅田の高層ビル群 、縦横無尽に入り組んだ通りと路地と歩道橋、迷路のような地下街は、魔界都市のようで、そこかしこで遭遇する酔っ払いのおじさんたち、派手な格好のお姉さんたち、愚連隊っぽいお兄さんたちを見ては、都会はすごいところだと感心した。阪急のあの巨大ターミナルの一番端の神戸線のホームに降り立つたびに戦々恐々とし、大阪の生活にすでに馴染みつつあった友人たちに道案内をしてもらっていた。

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キャヴァーン・クラブは、何ていうかとても品のよいライブハウスだった。年齢層は割と高め、その分お値段も少し高め、当時はバブル景気の最後期の、日本経済がまだ繁栄を謳歌していた時代で、綺麗なスーツをピシッと着こなした男性や着飾った女性が客の中心だった。なので、大学生の僕たちはちょっと浮いていたと思う。今なら、バーボンのボトルなんかをキープするんだろうけど、当時は何とか安く済ませようともっぱらビールだった。

バンドに演奏してほしい曲があれば、紙にリクエスト曲を書いて店の人に渡すという、とても単純明快なシステムだったと思う。新しいアルバムを開拓する過程で好きになった曲たち、例えば、「Please Mister Postman」や「Mr. Moonlight」、「 No Reply」、「 In My Life」、「 Here There and Everywhere」、「 Happiness Is a Warm Gun、「 Oh Darling」、「Get Back」 なんかをリクエストして、その曲が演奏されれば喜び、リバプールのキャヴァーン・クラブもこんなんやったのかな、と思いを巡らした。店を後にした後はカラオケでビートルズや他の曲を思う存分唄い、友人のアパートに泊めてもらい、次の朝元気に帰宅した。

この三人の友人のうち一人は、その後、ギターとベースにけっこう真面目に取り組むようになり、もう一人は、大学を卒業した後、音大に入り直した。これとは対照的に、僕には全く音楽的才能がなく、ギターもちょっとかじったがてんでダメで、ビートルズはもっぱら聴いて楽しむだけだった。だけど、あの当時覚えた歌は今でもちゃんと口ずさめて、意味もよく知らず覚えた歌詞が今なら普通に理解できるのは、自分も少しは成長したことの証だろうか。

追記

今は愛してやまない梅田ですが、その複雑怪奇さには、今だに困惑させられることがしばしばあります。東京新宿もよく複雑だと言われるけど、こちらは、JRの駅を中心に東西に分けて考えると割に気安く散策できるけど、梅田はなかなかそうは行きません。阪急から谷町線の東梅田とか駅前第一ビルとかに行けと言われれば、今でも道案内の標識が必要です。何かコツはないもんでしょうかね。

福山の先輩、尾道への旅

高校時代に同じ部活に所属し、慕っていた先輩が広島は福山の大学に通っていた。90年代初頭のある夏、この先輩を訪ねて福山まで遊びにいった。電話で話していて、暇やったら遊びに来いやと言われ、明日はどない、という具合にトントン拍子に話が決まった。

神戸から福山までなら新幹線に乗ればすぐだけど、当時の僕は時間はあるが金のない大学生であったゆえ、鈍行に揺られて気長な旅を楽しむ、という選択をした。関西の人ならご存知だろうが、京阪神とその近郊は、新快速という、特急並みの速度と停車駅の少なさを誇りながら普通料金で乗れてしまう、この上なく便利な乗り物をJR西日本がかなりの頻度で走らせている。これに乗れば姫路まではすーっと何の苦労もなく行けるのだが、そこからさらに西、つまり岡山方面へ行こうとすると、電車の本数も乗降者数もぐっと減り、沿線風景はのどかになり、にわかに「旅気分」が醸成される。

福山の駅には先輩が迎えに来てくれており、そこからは先輩のバイクの後ろに乗せてもらいアパートへと向かった。夕方になると先輩は、居酒屋のバイトのシフトをどうしても変わってもらえなかったと言って出かけていき、その間、僕はひとりでビデオを見たり、先輩のベッドでうたた寝したりして暇をつぶした。数時間後、先輩が彼女と一緒に帰ってきた。彼女と半同棲のような状態になっているのはすでに聞いていたが、実際に対面するのは初めてだった。先輩よりひとつかふたつ年上、学生ではなくアパレルかなんかで接客をしている人だったと思うのだが、今となっては顔も名前も思いだせない。ただ、とても大人っぽい、タバコを吸うのが絵になるきれいな女性だった。数年前まで学生服を着てのどかな田舎道を自転車で通学していた先輩に、こんな大人びた彼女ができたのが、何となく不思議だった。

次の日、彼女は休みを取ってくれていた。彼女の女友達が車を出してくれるそうで、どこか行きたいところはないかと聞かれたので、僕は尾道が見てみたいと言い、先輩、彼女、彼女の女友達、僕の4人で尾道へ繰り出した。福山から尾道までは車で30分ほど、とても近かった。あいにく、空には厚い雲がかかり、小雨のぱらつくうっとおしい日で、千光寺から晴れ渡った瀬戸内の海を一望する、という無邪気な旅行者的望みは絶たれてしまった。しかし、雨に煙る尾道の小さな路地や狭い通りは、夢幻的でなんだか現実離れしていて、それはそれで悪くはなかった。まるで古い白黒映画の中に紛れ込んだようで、それらのショットをそっと切り取っていつまでも大切にしまっておきたい気持ちだった。この尾道旅行は、カメラも持参していなかったし、色々なところで記憶が薄れているのだが、あの時の風景は、なぜか強烈な映像として頭の中に残存している。今でも目を閉じれば鮮やかによみがえり、疲れたときなど心を落ち着かせてくれる。

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こういう景色を期待してたんですけど(出典:おのみちや)

その後は、広島風のお好み焼き(イカ天の入ったお好み焼きを食べたのは、このときが初めてだった)を食べさせてもらい、福山へ戻り、実家に帰省する先輩とともに車上の人となった。数時間後には味気ないニュータウンの我が家へ帰宅、短い福山・尾道旅行は終わった。

後日談になるが、その先輩とは妙に気が合って、先輩が夏に帰省するたびに遊んだ。僕が運転免許を取って車を持ってからは、海へ行こうと夜中に舞子(神戸の西の端の浜辺です)までドライブしたり、深夜のガストで長話をしたり、オールナイトでカラオケしたり、今から思うと随分他愛のないことで時間がつぶせたものだと思う。でも、当時の僕は、先輩が大好きで、一緒にいるとこの上なく愉快で、何かとても貴重な時間を共有しているような気がしていた。その後、ふたりとも大学を卒業したわけだが、それからはたまに電話したり、年賀状やメールのやりとりをする程度の、すっかり遠い人となってしまった。7、8年前にもらったメールには、また会いたいですね、と書かれており、こちらも、ぜひ会いましょうと返したが、未だ再会は実現していない。福山にも尾道にもあれ以来一度も行く機会を得ていない。アメリカにいると日本はやはり遠い。

新長田と父の思い出

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新長田は、神戸の繁華街三宮から西へおよそ6キロ、味わい深い商店街の町だ。三宮・元町より西は、観光目的で神戸に来る人ならあまり出向かないだろうが、新開地・湊川、長田、新長田、板宿、と個性的な下町が続く。新長田は、同時に、先の震災で最も壊滅的な被害を受けた場所のひとつでもある。

今は亡き父は、この新長田で幼年時代を過ごした。父の父母――つまり、僕にとっては祖父母――は満州で父をもうけ、戦後割に早く、しかも家族を一人も失うことなく、日本へ引き揚げてくることができた。まずは、大阪の天王寺に落ち着いたが、ほどなく神戸へ移住、新長田、長田あたりでいろいろ商売を営んでいた。祖父母は、戦中から戦後への社会の変化の波についぞ乗れなかった人々で、どの商売もぱっとせず、にもかかわらず、両者とも規律正しい倹約家というわけではなかったので、家の経済状態は常に火の車だったらしい。そのせいで、父は進学をあきらめ、その後はずっと家族を支えるため働き詰めだった。僕にとっては、至極まともで良識のある祖父母で、よく可愛がってくれた思い出があるが、父はいろいろ思うところがあったようだ。

なので、新長田で幼年時代を過ごしたと言っても、父にとってそこがバラ色の思い出に満ちた、郷愁を誘う場所というわけでは決してなかった。でも、なぜか、僕が父と最後に遠出(といっても、全然遠くないんですけど)したのがこの新長田だった。あれは、パンデミックが日本の国境を閉ざしてしまう数年前、人々がまだ自由に旅をすることができた時代だ。当時、父の体はすでに相当弱っていて、泊まりの旅行は無理だったが、まだ歩行器を使って近場での外出ならできる、という状態だった。僕は年末恒例の一時帰国の最中で、特に誰が提案したわけでもなかったが、新長田でお昼食べよう、ということになり父母と僕の三人で出かけた。

僕たち三人は、まず、兵庫大仏のある能福寺へお参りし、その後はタクシーを拾い新長田へ移動した。駅前の韓国料理屋で腹ごしらえをし、駅前広場の鉄人28号に謁見し、商店街をブラブラした。師走とはいえ小春日和の陽気で、散歩にはうってつけの日だった。その日、駅前の広場ではちょうどケミカルシューズ工業組合主催の「くつっ子まつり」(ケミカルシューズは、神戸長田の地場産業ですね)が催されていた。震災以降、神戸の他の町と比べて復興が遅れている新長田だが、その日の人出は、往年の新長田を思い出させ、それは、父幼かりし日の新長田にも通じるものがあったと思う。あの日、父が何を思い新長田の町を歩いたか、今となっては知るよしもないが、終始機嫌がよく、普段にも増して食欲旺盛で、帰りに立ち寄ったカスカード(神戸を基盤とするパン屋さんです)で大きな菓子パンを平らげたことを思うと、それなりに満足のいく外出であったのだろうと、少々自己満足的ではあるが、結論づけたい。

その数年後、父はあの世へ旅立った。それは、壮大な(あるいは、冗長な?)長編映画が何の前触れもなく突然「終」のショットへ早送りされたような、あまりにも急であっけない終わり方だった。加えて、当時すでに世界的にパンデミックが拡大しており、僕は思うように国境をまたぐ旅ができず、父の死にまつわる多くのことが、自分の関与しないところで足早に始まり終わってしまった。これは、一方ではとても無念なことに違いなかったけれど、その一方で、自分を大切に育ててくれた人の死という、本来なら悲愴であるはずの出来事から現実感をある程度抜き去ってしてしまったことも確かだった。今やオールドタウンとなりつつある元ニュータウンのあの家にはまだ父がいて、電話をすれば、おお、お前か、どないした、という父の声が返ってくるような気がする。

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