歳月列車

米国での日常、そして、忘れえぬ日本の思い出

ああ、新開地

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新開地は、神戸近辺以外の人にはあまり馴染みのない場所かもしれないが、戦前の神戸の中心地。映画館や芝居小屋、飲食店の密集する、関西随一の繁華街だった。戦争中の空襲で焼かれ、戦後は少し東の三宮へ人の流れの中心が移っていった。

新開地とは子供の時分から不思議に縁があった。湊川公園から東山商店街を抜けて、少し北に行ったところに父方の祖父母が住んでいたので、新開地の商店街へも両親や祖父母に連れられよく行ったものだ。当時の新開地は、あまり治安のよくないところもあったりして子供が喜んで遊びに行くような場所ではなかったが、あの雑多で下町的な雰囲気は、多様性と変化に乏しいニュータウンで育った僕にはとても刺激的だった。

「新開地」という街の名前にも好奇心をそそられた。「新たに開かれた土地」という意味だが、僕の知っている新開地はむしろ古臭くて、三宮の華やかさとは対照的だった。一体なぜこんな名前がついたのかと子供心に不思議だった。ずいぶん後になってから、神戸の歴史書や谷崎の『細雪』を読み、戦前の新開地の繁栄を知ることで、この名前についても納得がいった。

新開地の地下にはメトロこうべがあり、高速神戸駅〜JR神戸駅へ続いている。このあたりはは、1990年代初頭にハーバーランドができてから開発が進み随分立派になったけど、それ以前は、なんとなく薄暗い、都会の真ん中にしてはひなびた場所だった。元日は、家族みんなで、高速神戸の駅の真上にある湊川神社(僕たちは楠公さんと呼んでいたが)を訪れるのが毎年の習慣だった。寒い年の元日はこの地下街を重宝した。

僕の子供の頃は、この地下街にまだたくさん古本屋があって、本好きの父に連れられよく行ったものだ。僕は、今でも地下街と古書街が好きで、例えば札幌やモントリオールの巨大地下街、東京・神保町の古書街を初めて訪れたときはいたく感激したが、その原点は、子供の頃のメトロこうべという体験にあるのかもしれない。

大学生になってからは、通学の際の電車の乗り換えが湊川だったので、講義が早く終わりバイトがないときなどは、新開地をうろつくことがしばしあり、いろんなことを学んだ。

初めての仕事もなぜか新開地だった。そこの仕事は午前中のみで、午後は大阪で別の仕事、という日が多かったので、新開地での仕事が終わると、商店街を南下しながら昼ごはんを食べられる店を探した。お腹を満たすと、高速神戸まで運動がてら歩き(といっても、とても短い距離だけど)、阪急の特急に乗り大阪へ向かった。神戸アートビレッジセンターを見つけたのは、そんな風に商店街を歩いているときだった。震災から何年か経っており、新開地が少しずつ変わっていくのを実感した。

アートビレッジセンターといえば、ここで確か成瀬巳喜男の特集があったのを覚えている。当時は、成瀬映画はほとんビデオになっておらず、衛星放送で流れるのを待つくらいだったので、ここでまとめて成瀬映画が見れるのは感動モノだった。『めし』を初めて見たのはたぶんここだった。

その後、僕は渡米してしまったわけだが、今でも帰国したときはなぜか足が新開地・湊川へ向いてしまう。数年前は、三宮・元町や灘・東灘方面はよく知っているが、兵庫区には行ったことがないという相方を案内したら、えらく感動していた。前回は(といってもすでに2年以上前になるのだが)、東山商店街から始め、新開地界隈をぶらぶらし、メトロこうべにも潜り込み、最後は世界長で一杯飲んできた。

今となっては、祖父母も父ももうこの世にはいないが、新開地のことを思うと、逝ってしまった人たちが無性に懐かしくなり、あの頃に帰って一緒にそぞろ歩きたくなる。