歳月列車

米国での日常、そして、忘れえぬ日本の思い出

新長田と父の思い出

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新長田は、神戸の繁華街三宮から西へおよそ6キロ、味わい深い商店街の町だ。三宮・元町より西は、観光目的で神戸に来る人ならあまり出向かないだろうが、新開地・湊川、長田、新長田、板宿、と個性的な下町が続く。新長田は、同時に、先の震災で最も壊滅的な被害を受けた場所のひとつでもある。

今は亡き父は、この新長田で幼年時代を過ごした。父の父母――つまり、僕にとっては祖父母――は満州で父をもうけ、戦後割に早く、しかも家族を一人も失うことなく、日本へ引き揚げてくることができた。まずは、大阪の天王寺に落ち着いたが、ほどなく神戸へ移住、新長田、長田あたりでいろいろ商売を営んでいた。祖父母は、戦中から戦後への社会の変化の波についぞ乗れなかった人々で、どの商売もぱっとせず、にもかかわらず、両者とも規律正しい倹約家というわけではなかったので、家の経済状態は常に火の車だったらしい。そのせいで、父は進学をあきらめ、その後はずっと家族を支えるため働き詰めだった。僕にとっては、至極まともで良識のある祖父母で、よく可愛がってくれた思い出があるが、父はいろいろ思うところがあったようだ。

なので、新長田で幼年時代を過ごしたと言っても、父にとってそこがバラ色の思い出に満ちた、郷愁を誘う場所というわけでは決してなかった。でも、なぜか、僕が父と最後に遠出(といっても、全然遠くないんですけど)したのがこの新長田だった。あれは、パンデミックが日本の国境を閉ざしてしまう数年前、人々がまだ自由に旅をすることができた時代だ。当時、父の体はすでに相当弱っていて、泊まりの旅行は無理だったが、まだ歩行器を使って近場での外出ならできる、という状態だった。僕は年末恒例の一時帰国の最中で、特に誰が提案したわけでもなかったが、新長田でお昼食べよう、ということになり父母と僕の三人で出かけた。

僕たち三人は、まず、兵庫大仏のある能福寺へお参りし、その後はタクシーを拾い新長田へ移動した。駅前の韓国料理屋で腹ごしらえをし、駅前広場の鉄人28号に謁見し、商店街をブラブラした。師走とはいえ小春日和の陽気で、散歩にはうってつけの日だった。その日、駅前の広場ではちょうどケミカルシューズ工業組合主催の「くつっ子まつり」(ケミカルシューズは、神戸長田の地場産業ですね)が催されていた。震災以降、神戸の他の町と比べて復興が遅れている新長田だが、その日の人出は、往年の新長田を思い出させ、それは、父幼かりし日の新長田にも通じるものがあったと思う。あの日、父が何を思い新長田の町を歩いたか、今となっては知るよしもないが、終始機嫌がよく、普段にも増して食欲旺盛で、帰りに立ち寄ったカスカード(神戸を基盤とするパン屋さんです)で大きな菓子パンを平らげたことを思うと、それなりに満足のいく外出であったのだろうと、少々自己満足的ではあるが、結論づけたい。

その数年後、父はあの世へ旅立った。それは、壮大な(あるいは、冗長な?)長編映画が何の前触れもなく突然「終」のショットへ早送りされたような、あまりにも急であっけない終わり方だった。加えて、当時すでに世界的にパンデミックが拡大しており、僕は思うように国境をまたぐ旅ができず、父の死にまつわる多くのことが、自分の関与しないところで足早に始まり終わってしまった。これは、一方ではとても無念なことに違いなかったけれど、その一方で、自分を大切に育ててくれた人の死という、本来なら悲愴であるはずの出来事から現実感をある程度抜き去ってしてしまったことも確かだった。今やオールドタウンとなりつつある元ニュータウンのあの家にはまだ父がいて、電話をすれば、おお、お前か、どないした、という父の声が返ってくるような気がする。

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