歳月列車

米国での日常、そして、忘れえぬ日本の思い出

新神戸と旅の思い出

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JR新神戸は在来線と接続のない新幹線専用の駅で、しかも、三宮・元町の繁華街から微妙に離れているので、ふらっと立ち寄ったり、という経験はあまりなく、僕にとっては、もっぱら長距離の旅の玄関口という意味合いが強い。なので、新神戸にまつわる思い出も何らかの旅と強く結びついている。

子供の時分は、毎夏この駅から広島県の三原まで新幹線に乗り、すぐ近くの三原港へ移動、そこからは国道フェリーで母方の祖母と叔母たちの住む四国へ渡った。1980年代といえば日本経済が繁栄を謳歌していた時代だが、中流の家庭といえども、海外旅行や長期の国内旅行にそう気軽に行けたわけではなかった。そんな中で、多くの子供たちにとって、おじいちゃん・おばあちゃんのいる「いなか」へ行くのは、夏の特別イベントの中でも最大級のものだったと思う。僕の育った町は、高度成長期に量産された典型的なニュータウンだったので、近所の友だちも、両親の少なくとも一方が四国、中国、九州の出身というのが多くて、お盆になると、みんな「いなか」へ里帰りしていた。

僕は若く優しい叔母たちが大好きだったので、新神戸から新幹線に乗って出かけるのを楽しみにし、毎年梅雨が開け夏が本格的に始まると、そわそわして心ここにあらず、という感じだった。しかも、僕の町は新幹線の駅からも線路からもかなり離れていたので、新神戸の駅で「ひかり」と「こだま」を見るという行為それ自体が興奮もののイベントだった。吉田兼好の言う「しばし旅立ちたるこそ、目さむる心地すれ」、すなわち、「しばらく旅に出ると、目が覚めるようなわくわく感がありますよ〜」の心境を僕は新神戸で体験していたということになる。

しかし、楽しみにしていた分、それが終わったあとの「祭りの後」的感覚は半端なく残酷かつ強烈なわけで、四国での滞在を終えて新神戸に降り立った時のあのどんより沈んだ気持ち、明日からまた普通の日常に戻ってしまうのだという嘆息は、この年になってもしっかりと記憶に刻印されている。

渡米してからは、新神戸への帰着はむしろ歓迎すべきイベントとなった。北米から関空への直行便がほとんどないため、日本訪問時はほぼ毎回成田か羽田を使っており、東京で少し(でも真面目に)仕事をした後、新幹線で神戸へ帰るのだが、新神戸のホームへ降り立つと、大好きな関西へついに戻ってきたという実感が湧き上がってきて、それは何度経験しても心地よい高揚感だ。で、お分かりのように、米国への帰国時、新神戸から東京行きの「のぞみ」に乗る時の気持ちは、これとは真逆で、新神戸への足取りは少々重い。

随分前、暮も押し迫った寒い朝、1週間ほどの関西滞在を終えて新神戸へ向かっていた。その時はいくつかの理由で関西を去るのが特に名残惜しく、三宮で所要を済ませた後、地下鉄で新神戸まで移動する元気もなく、JRの東口からタクシーに乗った。すると、ラジオのFM放送からユーミンの荒井由実時代の歌で、僕の大好きな「何もなかったように」が流れてきた。

昨夜の吹雪は 踊りつかれ
庭を埋づめて静かに光る
年老いたシェパードが遠くへ行く日
細いむくろを 風がふるわす
人は失くしたものを
胸に美しく刻めるから
いつも いつも
何もなかったように
明日をむかえる

生きていれば、歌舞歓楽、悲傷憔悴、孤立無援、どろどろドラマ、どきどきロマンス、はらはらアドベンチャーなどなど、ごった煮のごとくいろいろあるだろうけど、幾星霜経ってしまえば、「何もなかったように」みんな思い出の一頁になるよ、という「方丈記」的無常観をユーミン流の繊細な言葉で綴った歌だ。この歌が流れてきたのはもちろん全くの偶然だったが、なにか大切な必然のように感じた。新神戸までの5分ほどの短い道中、この歌を静かに聴いているうちに、自分をちょっと突き放して、少し冷静に遠くから見ることができ、不思議に心が休まった。今は、神戸にもう少し長くいたい、アメリカに帰りたくない、とグチュグチュ言ってるけど、ひと月もすれば、あの旅はよかったな、と懐かしく振り返り、記憶のひとかけらになってしまうんだ、と。

その後は、新神戸の駅で一貫楼の豚まんを買い、新幹線の中で昼食、食後の昼寝から目が覚めると終着東京。日本滞在の残りの数日を普通に楽しみ、米国へ帰ってきて「何もなかったように」元の生活に戻っていった。