歳月列車

米国での日常、そして、忘れえぬ日本の思い出

高野豆腐賛歌

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先週は相方が出張で留守にしており、柴犬くんと二人きりで濃密な時間を過ごしていたのだが、仕事がたまっていて気が重かった。仕事の性格上、オフィスでの拘束時間は短いのだが、締切が重なると週末も何もあったものではなく、家にいてもやることが次々と出てきてなかなか休む暇もない。それでも、柴犬くんと近所の桜の開花度を調査に行ったり、春の換毛期が始まりつつある彼の毛にブラシをかけてやったりしていると、ああ、春だなぁ、と実感した。

息抜きに高野豆腐を炊いた。僕が好きなのは、だしと醤油と少しのみりんで炊いた、あまり甘くない高野豆腐だ。ちょっと豪華にしたいときは、卵とじにすることもある。以前は、だしから取っていたので手間がかかったが、数年前、日本の友人に紹介してもらった茅乃舎のだしを使いだしてから、飛躍的に調理時間が短縮され、高野豆腐を炊く頻度が上がった。高野豆腐は、酒の肴にもなるし、ご飯のお数にもなる。口の中に入れた高野豆腐からだしが染み出し、そのだしを味わいながら、プルンプルンの食感を堪能していると、箸が止まらない。何か好きなものを心いくまでどか食いすることを英語では、binge(ビンジ)というが、僕にとって高野豆腐は時にbingeしたくなる非常に愛おしい食べ物だ。

自分が好きなので、高野豆腐とは、誰もが普通に好きで普通に食しているごく一般的な食べ物だと思っていたのだが、このブログの記事を書くにあたって、軽くネットで検索してみるとけっこう侮蔑・虐待されているので驚いた。スポンジみたい、キシキシした食感が嫌い、主食にならない、などなど。あまりにけちょんけちょんに言われているので同情を禁じえなかったが、一方で、ああ、こういう見方もあるのだと、自分の感覚と感性で社会全体の嗜好を判断してしまうことの危うさを感じた。

それはさておき、今回はあいにく日本酒を切らしており、近所のスーパーまで出かけていくのも難儀なので、ちょうど冷蔵庫にあったサッポロと一緒にいただいた。やはり、この手の薄味の和食には日本のビールがよく合う。クラフトビールの興隆する昨今のアメリカでは、ビールと言えばラガーよりエールで、僕も普段は地元のクラフトビール産業界に微力ながらも貢献するエール消費者なのではあるが、和食に合わせるには味の主張が少し強すぎるように思う。その点、日系のラガーは、すっきり辛口で、高野豆腐とも冷奴とも温奴とも湯豆腐とも肉豆腐とも白和えとも相性がよい。その昔、中西部の田舎に暮らしていて、サッポロやアサヒといった日系ビールが簡単に手に入らなかったときは、イタリアのペローニとか、ベルギーのステラ・アルトワで代用していたが、これらは安価で手に入りやすく、かつ、苦さやキレの良さが日系ビールと通じるものがあるように思う。

春の夕暮れのどき、台所のテーブルから裏庭の水仙を眺めながら、サッポロを飲んで高野豆腐を食べる。横では、愛しき柴犬くんが、何とかご相伴にあずかろうと視線と前足で僕の気を引いている。目の前のパソコンからは古い浜省が流れている。資本制のもとに生きる一介の労働者にとってこの浮世は、苦しいことに溢れているが、こういう小さな幸せがあるからこそ、明日も労働に勤しもうと思える。

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これは、先週。今は、もう散り始めています。