歳月列車

米国での日常、そして、忘れえぬ日本の思い出

阪急茨木市駅

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その昔、まだ神戸に住んでいた時分、茨木で仕事をしていたので、ここには週3回ほど通っていた。その仕事は常勤の仕事ではなかったので、それだけでは資本に管理・支配された社会で生存していくことは到底できず、午前中は神戸で仕事をして、午後に茨木へ駆けつけるということを数年やっていた。

神戸での仕事が終わると、神戸駅へ向かい、たいていは、うどんとお握りという、今ならちょっと怖くなるくらいの糖質たっぷりの昼食を簡単に済ませ、高速神戸から阪急に乗り、十三で京都線に乗り換えた。この移動時間は、貴重な昼寝の時間であり、また、次の仕事のための準備時間でもあった。神戸→茨木というパターンで仕事を始めたころ、茨木市は未だ特急の停車駅ではなかったのだが(当時は、十三、高槻市、大宮、烏丸のみだったような)、途中から特急が止まるようになり、随分便利になったなと感慨深かったのを覚えている。

茨木の仕事が終わるのは午後6時ごろ。それから、バスで阪急茨木市(あるいはJR茨木)へ出て、そこから神戸へ帰る。阪急岡本(あるいはJR摂津本山)へたどり着くのは7時半頃。それから買い物なんかして帰ると、晩のごはんは8時半頃で、夜はあっという間に過ぎていった。

今から思うと、当時の自分の経済状況というのは決して楽観視できるようなものではなかった。複数の仕事を掛け持ちし、常勤の仕事はしていなかったので、給料は安く、昇給もなく、健康保険も厚生年金もなかった。保険に関しては、神戸市民として国民健康保険に加入していたが、よく知られているように、この市の国民保険料は異常に高く、毎年請求額を見てはぎょっとした。

ただ、当時の自分は、絶望や焦燥といった感情とは不思議に無縁だった。毎晩へとへとになって帰ってきても、次の日には元気に出勤し、週末には友人たちと堂山や天六で楽しく飲み、暇があれば難波や天王寺や京都にまで遠征した。同僚にも恵まれていて、新しい仕事を紹介してくれる人もけっこういた。全く別の分野に進んだ同年代の友や知り合いが、それぞれの仕事でそれなりの地位を得つつあるのを見ても、妬んだり羨んだり自分を卑下したりすることもなかった。

それは、当時の僕が、夢というか、小市民的野望というか、そういうものを曲がりなりにも持っていたというのもあるが、やはり最大の理由は、自分が若く健康であったからだと思う。若さと健康はやはり財産であり、よって、資本であり、その資本を利潤のために投下することができる。そして、その資本投下を1年や2年ではなく、10年や20年という長期の運動としてとらえることができる。今の生活が完璧ではなくても、今ここでふんばれば、10年後、20年後にはきっとより良き生活が手に入る、みたいな思考だ。当時はこんなふうに論理建てて(?)考えたことはなかったが、今なら、当時の自分の多分に楽観的な生き方が、ちょっとぼやけてはいるが、それゆえに魅惑的な「未来」という概念に支えられていたことが分かる。

もちろん、未来について考えることは今でもある。しかし、自分の実力の限界、個人の努力では変革不可能な社会構造などを考慮すると、今の僕が考える未来は極めて具体的で予測可能で、そこには甘い夢が入り込む余地はほとんどない。年収とか昇進とか家の修繕とか健康維持とか退職後の住まいとか、そんなことばかりに気が行ってしまう。これが悲しく退屈だと言っているのでは決してなく、具体的なデータをもとに未来の生活がある程度予測できるのは、それはそれで幸せなことだとは思うし、またそうでなければ、この浮世で生きていくことはできない。ただ、ときに、無限とまではいかなくても多数の可能性に満ちた未来を想像していた、ちょっと向こう見ずな自分が懐かしくなることがある、それだけだ。

茨木の話をしていたのに、かなり違う方向に進んでしまった。話を戻します。数年前、阪急の高槻市駅近くで友人と落ち合う約束があり、その前にちょっと時間があったので、茨木市駅に降り立った。当時は、仕事で忙しく駅周辺を散策する暇なんて全くなかったので、駅のホーム以外にはほとんど記憶がなかった。久々に歩く阪急茨木市界隈は、まるで初めて降り立った町のようでとても新鮮だった。

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