歳月列車

米国での日常、そして、忘れえぬ日本の思い出

沖縄と父の思い出

死んだ父が夢に出てきた。僕は一時帰国中で両親の家に滞在しており、父と居間で普段どおりの会話をしている。最終的に父の命を奪うことになる病はまだそれほど進行してはいないようで、よく喋り、体も普通に動いている。と、唐突に「お前に会えるのもこれが最後かも知らんなぁ」と言う。僕は驚いて、「お父さん、何でそんなこと言うん?」と聞くと、父は何も答えず、寂しそうに下を向いてしまう。「また半年したら、帰ってくるやん」と言おうとしたところで、目が覚めてしまった。

前回の記事では、これだけ米国暮らしが長いと日本のことも少しずつ忘れていく、みたいなことを書いたが、父の死はわずか1年半前なので記憶も今だ鮮明であるし、ふとした拍子に父を思い出したり、こうして夢に出てきたりすることもけっこうある。父の死が突然であったこと、死に目に会えなかったこと、父の死に際しても一時帰国できなかったことなどなど、自分の中で整理しきれていないことが多々あるのだと思う。時が経てば、忘れてしまう日が来るのだろうけど、そんな日はまだずっと先のようだ。

父は戦中の生まれで、その年代の多くの男性がそうであったように、寡黙で仕事一筋の真面目な人だった。しかし、頑固で頭の固い家父長というわけではなく、僕を含めた子どもたちに自分の価値観や期待を強要することもなく、やりたいことをやらせてくれたし、そのために経済的な支援もしてくれた。僕が今曲がりなりにも仕事をして月給をもらって、世間一般で言う真っ当な人生(ま、この定義は人それぞれで、アメリカで浮き草的な生活している中年男の暮らしが「真っ当」なわけないやん、という人もいるとは思いますが)を歩むことができているのは、そんな父(そして母)が与えてくれた愛情と教育のおかげだと思う。

戦中生まれの父は、思想的にはどちらかと言えば保守派で、人は結婚して子供を持つのが当たり前、そうしてこそ一人前、という考えを完全に内面化していたと思うのだが、僕に対して「結婚しろ」とか「孫が見たい」とか言うこともなければ、僕の生き方や思想を否定するようなことも一切言わなかった。僕の相方とも普通に会話し、パンデミックの前までは一時帰国の際には一緒に食事に行ったりもした。父にとってこれは、決して容易なことではなかっただろうが、僕のことを父なりに理解しようと努力してくれていたのだと思う。

父が亡くなったとき、父の机から、死後の諸々の手続きについて記した「エンディング・ノート」なるものが出てきた。それを母が写真に撮って送ってくれたのだが、その中には、僕に向けて、お前の人生はお前のものなので、生きたいように生きたらいい、という趣旨のことが書いてあり、これを読んだときは、さすがに涙がどっと流れ出てきた。あのときほど、日本とアメリカとの距離を歯がゆく恨めしく思ったことはなかった。

今日の写真は、両親と沖縄へ行ったときのもの。結果的には、これが父とした最後の旅となった。もうその頃には、父は歩行器なしで歩くことはできず、歩いてもすぐに息切れがしていた。6月の沖縄はほぼ真夏で、炎天下の中を歩くのは、父にとってはかなり難儀だった。

こうして写真を見返すと、もう随分昔の出来事のように思えるのだけど、実はほんの数年前だ。あれから、父の病状は急速に悪化し、あっという間に逝ってしまった。それ以外にも、この数年自分の人生において実に多くの変化があったので、あの沖縄旅行がはるか遠い過去のことであったような錯覚に陥ってしまうのだろう。

今のところ、母はまだ元気だが、母もいつかは逝ってしまうだろうし、もう老犬である柴犬くんの最期は意外に早くやってくるかもしれない。父の死以来、誰しもいつかはこの世から去っていく、という当然のことを現実感を持って考えることが多いのだが、正直言って、これから確実に訪れるこういった大切な人(そして犬)の死を受け入れる準備はほとんどできていない。

最近とても好きなアルバムです。

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