歳月列車

米国での日常、そして、忘れえぬ日本の思い出

亡き父のこと、神戸湊川のこと

2年5ヶ月ぶりの一時帰国から米国に戻ってきて、もうすぐひと月になるのだが、いろいろ思うところがあり、それらの感情とどう向き合えばよいのか分かりかねる時がある。夕方、少なくとも5時までは普通に仕事をしていて、それは、精神の集中というか、自分の社会的な存在意義の再確認というか、そういう意味においてはとても重要なのだが、夜、夕飯を済ませ、柴犬くんの散歩も済ませ、ぼーっとお酒を飲みながら好きな音楽を聞いている時など、それまで抑えていた様々な感情がどっと押し寄せてきて、ちょっと戸惑ってしまう。

そんな時に絶えず思っているのが、父のことだ。このブログでも何度か書いたが、父はもうこの世にはいない。2年ほど前にあっけなく亡くなってしまったのだが、ちょうどコロナで国境がほぼ封鎖されている時であったので、帰国はあきらめ、先月の日本行きが、父の死以来初めての一時帰国だった。

これも以前書いたが、父の闘病、入院、死、葬式(といっても、コロナの第○波とかいう時期だったので、家族だけで簡単に済ませたのだが)まで、すべて遠い海の向こうで起こり、自分がその過程に積極的に関わることができなかったので、父の死を事実としては認識していても、あまり現実感がなく、父が実は長い長い海外出張にでも行っているような、たくさんのお土産を抱えいつかふらっと帰ってくるような、そんな幻想が頭のどこかにあった。

 

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実家へ帰り、仏壇を見、遺影写真を見、父が生前使っていた、今はガランとして部屋を見ると、そんな幻想は吹き飛び、父の死という動かすことのできない現実に強力なパンチを食らわされたような気になった。

それから僕はずっと思っている。2年5ヶ月という間日本へ帰らなかったことで、何かとてつもない大きな間違いを犯してしまったのではないか、と。父の死目には間に合わなかったとしても、もう少し早く日本へ帰り、残された母を手伝うなり、そばにいて母の気持ちに寄り添うなり、そういったことは可能だったのではないか、と。日本へ帰らなかった2年5ヶ月の間に失ったのは、実は、父だけではなく、他にもまだたくさんあるのではないか、と。こういった、おそらく悔恨とか悲嘆と呼ぶべき感情が次から次へと押し寄せてきて、それは、米国へ帰ってきた今でも続いている。

一時帰国中、例によって例のごとく、湊川を歩いた。湊川の東山商店街を抜けてちょっと行った先に、父方の祖父母が住んでいたので、この辺りは、本当によく父と歩いた。この辺りを歩いていると、過去の様々な映像が悲しいくらいの鮮明さで蘇ってくる。小さな路地を入ったところにおじさんが一人でやっている小さな串カツ屋があって、駅から祖父母の家へ行く途中、そこで一休みして好きな串カツを一本食べさせてもらうのが、楽しみだったこと。電車の中で読んでいたコロコロコミックが重くて、父が持ってくれたこと。父のくれたクイッククエンチのレモン味のガムを噛みながら、この商店街を歩いたこと、などなど。

東山商店街以外にも、湊川商店街、パークタウン、湊川公園などなど湊川界隈はほぼすべての場所に何かしらの思い出がある。そこかしこに父と祖父母の面影がゆらゆら、ちらちらしていて、彼らが優しく手をふってくれているような気になる。これは、もちろん心地よい感覚には違いないのだけど、その一方で、僕を過剰に感傷的にさせてしまう。そんなときは、慣れ親しんだ神戸という場所ががこの上なく愛おしくなり、もうこの地には生活の基盤のない今の自分がたまらなくはがゆくなる。

僕の心がこういった感情に今支配されているのは、ひとえに、2年5ヶ月という長きに渡って日本へ帰らなかったことが原因だと思う。あまりに久しぶりの日本で、それにまつわる感情がうまく整理できていないのだと思う。なので、これは、もちろん時間が解決してくれるだろうし、また、以前のように定期的に一時帰国するようになれば、気持ちも落ち着いてくるのだと思う。というわけで、次は、年末の休暇に日本行きを目論んでいるのだが、航空券、高すぎ・・・。