歳月列車

米国での日常、そして、忘れえぬ日本の思い出

カムアウトと夙川の思い出

去年の暮の一時帰国の際に、例によって例のごとく、普段は一人暮らしで話し相手のいない母から日々のよしなしごとをあれやこれや聞かされていたとき、ふとしたきっかけで、自分の性的指向(つまり、自分がゲイであるということですね)について両親にカムアウトしたときのことを思い出した。僕は、このブログで遠い(あるいは近い)過去のことを懐かしさを込めて、しばしば感傷的に書き綴っているが、半世紀近くに及ぶこの人生、できれば思い出したくない過去もそれなりにあるわけで、カムアウトをめぐる両親との軋轢もそんな過去のひとつだ。

僕が両親にカムアウトしたのは、90年代の後半。就職してまだ間もない頃で、職場がそれほど遠くなかったので自宅から通っていた。その数年前からゲイとしての活動を始めていて、そっち方面の友達から電話がかかってきたり(携帯電話は、まだそれほど普及してませんでしたからねぇ)、外泊したりすることが多くなっていたので、そろそろ言っておいた方がいいかなと思った。両親に自分のすべてを理解してほしいという大それた欲望があったわけでは決してなく、今後僕がどういった交友関係を持ち、どういった人生の選択をするかということを、一緒に住んでいる以上、ある程度知ってもらっておくべきだと結論づけたのだ。

両親がどう反応するかは全く予想がつかなかった。今でこそ、LGBTQの問題について理解が促進され、かなりオープンに話せるようになってきた感があるが、当時の日本では、ゲイに対するあからさまな差別はないものの、人は結婚して子供を持って一人前という異性愛のイデオロギーが支配的で、そんな気軽にカムアウトできるような社会的雰囲気ではなかった。そもそも、当時は、異性愛者、同性愛者にかかわらず、独身でいるということ自体、まっとうな人生から外れていることのように見られていた。

もちろん、東京や大阪といった大都会のど真ん中で育ったなら状況は違ったんだろうけど、僕が住でいたのは神戸の郊外の小さな町、両親が僕の望むほど進歩的・開明的であるという保証はどこにもなかった。ま、すでに経済的には自立しているわけだし、最悪の場合、家を出て一人で住めばええやと楽天的に考えていた(で、実際、そうなったのだが)。

カムアウトの結果は、う〜ん、ひどかったですね。母は完全に取り乱し、今まで一生懸命育ててきた息子に何でこんなひどい仕打ちされなあかんの、と泣き出した。人の性的指向というものが、服を着替えるように変えたりできるものではないということが分からず、僕が彼女を困らせるためにゲイになることを選んだとでも思っているようだった。父の方は、母のように感情的にはならなかったが、「世間の常識」という概念を持ち出してきて、僕のしていることは異常だと主張した。

皮肉なことに、僕は、他でもなく両親が授けてくれた高等教育のおかげで、ゲイであることが異常でも何でもないことを理解していたので、両親に言われたくらいでゲイとして生きることを断念してしまうようなそんなタマではなかったが、やはり、そこは人生経験浅き若者ゆえ、両親の無理解には正直傷つき、早々と家を出る決意をし、5月の連休明けには小さなワンルームのアパートへ引っ越した。

それ以降は、少しの冷却期間を経て両親も徐々に落ち着き、7、8年後には相方と会って食事をするまでになった。今となっては、あの時は両親も苦しかっただろうし、こちらももう少し色々な下準備・根回しをして、彼らに大きなショックを与えない形でカムアウトするべきだったかなと思ったりするのだが、カムアウトしたあの日から家を出るまでの数週間のことは、辛きことばかりで、やはり今でもあまり思い出したくない。

そんな思い出したくないことをなぜここでウダウダ書いているのか。家を出ると決意してアパートを探しにいったのが阪急の夙川界隈で、その時の夙川の美しい風景が今もしっかりと胸に焼き付いているからだ。

神戸や阪神間住みの人には説明不要だろうが、西宮の夙川沿いは、お隣の芦屋川沿いと並んで、桜の名所として知られている。それ以外の季節でも、阪急の夙川駅から南北に伸びる川沿いの遊歩道――北へ行けば阪急の苦楽園口、南は阪神の香櫨園――は季節の花にあふれ、都会の真ん中にいることを忘れさせてくれる静かな空間だ。

僕がアパート探しに行ったのは、4月の中頃。夙川の駅近くにあったエイブルで部屋を即決して外に出ると、すでに薄暗くなりかけていた。なるべく両親と顔を合わす時間を減らしたかったので、その辺をちょっと散歩して帰ることにした(こういう場合、今ならどこかで飲んで帰るんでしょうけどね)。桜はすでに散り、葉桜の季節だった。その年は正月を過ぎた頃から、就職活動やなんかでとても忙しく、その時にやっと花の季節がすでに過ぎてしまっていることに気づいた。

香櫨園へ続く遊歩道上のベンチに腰掛けて、春先のぬるい風に吹かれながらぼーっとしていると、涙がすーっと流れてきた。でも、それは、悲しいとか辛いときの涙というより、僕と両親との関係が以前のような、子供の成長を見守る親とその親の期待を背負って育つ子供、という無垢なものではもはやなく、これからは自分も一人の独立した大人なんだという事実に対する感慨への涙だったと思う。一人暮らしは楽しみであったし、何より、夙川のような美しく、しかも交通至便な都会の街に住めることに心は高揚していた。事実、実家を出てから渡米するまで阪神間で一人暮らしをした日々は、ちょっと大げさな言い方になるけど、未来への希望と野望に満ちていて、これまでの人生の中で精神的には一番充実していた(経済的に全然そんなことなかったけど)。

これは後日談になるが、その後、諸々の事情でそのアパートは断念し、阪急の別の駅の近くのアパートに住むことになった。しかし、夙川界隈は今でも僕にとって特別で、そしてもちろんお気に入りの場所で、一時帰国の際阪急に乗っていて、訳もなくふらっと途中下車してしまうことがある。