歳月列車

米国での日常、そして、忘れえぬ日本の思い出

阪急岡本の思い出

僕の住む米国東部のこの街も、最近は寒さが和らぐ日があって冬の終わりが近づいていることを感じる。先日の夕方、柴犬くんとの散歩の途中、そろそろ沈丁花の季節だなと思いながら歩いていると、奇遇にもあの甘い香りがただよってきて、思いもかけない場所で大きな沈丁花の株を発見。こちらでは、沈丁花はどこにでもあるわけではないので、近所のどの家に沈丁花が植えてあるかだいたい把握しているつもりだったが、こんな近くにも沈丁花があったとは。うれしい驚きだった。

で、今日は岡本の話。なぜ岡本かというと、2月といえば沈丁花もそうだが、梅の季節でもある、ああ、そうだ、梅といえば岡本の梅林公園だ、という連想があったからだ。ただ、今日は梅林公園の話ではなく、岡本の街の話なんですけど。

阪急岡本は神戸市東灘区の駅。阪急の中では神戸の一番東、つまり、一番大阪寄りの駅。ちょっと東へ行くと、芦屋市になる。駅自体はこじんまりとしているが、ここから少し海側へ下ったJRの摂津本山駅にかけては、石だたみの歩道がきれいで、品のいいお店が並んでいて、甲南大学のおしゃれな学生がたくさんいて、と阪急神戸線沿線の街の中でも特に高級感ただよう界隈だと思う。20年以上も前、渡米する直前まで住んでいたのがJR摂津本山付近で、当然、岡本も自分の生活圏だったが、あの辺りを散歩するのは実に楽しかった。

僕が岡本について具体的な知識とイメージを持ち始めたのは、大学に入った頃、同じ学科にいた岡本在住のある女性がきっかけだ。彼女は、高校は宝塚の名門私立、お父さんはどこかの会社の重役という、阪神間のお嬢様を体現するような人物だった。決して絶世の美女といういわけではなかったが、着ているものにしろ、身のこなしにしろ、自分とは違う社会階級の出だというのが明らかだった。時は1990年代初頭、まだバブルの余韻が残っていて、ブランドものに身を固めた女子大生がたくさんいた頃だ。彼女もそんな女子大生の一人だったが、彼女の場合は「大学デビュー」組のようなぎこちなさがなく、すべてが都会的で自然で板についていた。

僕のいた学科は1学年に40人ちょっとという、高校のクラスの延長のような感じだった。そんな中で彼女は、特別な、そして強烈なオーラを放っていて、入学してわずかひと月ほどで、すでに皆から一目置かれるようになっていた。学園祭で催しものをする際にはリーダーになって仕事を割り振ったり、飲み会では場を仕切ったりと、とにかく目立つ存在だった。勉強もよくできて、授業中の議論では積極的に発言していた。

僕は、高度経済成長期における「一億総中流」の日本社会を象徴するようなニュータウンで育った。そこでは、皆が同じような大きさの戸建て住宅か集合団地に住み、大半はサラリーマン家庭で、よって、貧富の差を意識することはほぼなかった。大学に入ってようやく、個人の努力ではどうすることもできない社会階級にもとづく格差が日本社会にも存在するということを実感するようにいたったのだが、そのきっかけのひとつが岡本の彼女だった。

彼女の家庭が具体的にどのくらいの金持ちかなんて、もちろん、僕には知る由もなく、当時流れていた彼女と金にまつわる数々の噂にしたって、その多くが信憑性に欠けるものだったと思う。ただ、彼女を見ていると、裕福な家庭に育ってきた人たちの余裕や自信や矜持みたいなものがヒシヒシと伝わってきて、その意味において彼女は、僕がそれまでの人生の中で全く出会ったことのなかったタイプの人だった。大人になってからこういう人と出会うと、嫉妬とか羨望とか、いわゆる「ルサンチマン」的な感情を抱いてしまうかもしれないが、当時の僕はまだ無邪気な子ども、彼女のことを素直にすごいと思っていた。

僕と彼女との間には個人的な接点はほぼなかったので、大学の卒業式後の謝恩会以来、彼女には会っていない。その後、彼女は、得意だった語学を活かしてヨーロッパのある国で就職し、今もそこで暮らしているということを大学時代の友人から聞いた。僕はといえば、彼女がちょうどヨーロッパへ旅立った頃、彼女のホームタウンである東灘区へ移り住み、それから渡米までの数年間、彼女の育った岡本の街を幾度となく訪れ探索した。正直言って、これまで彼女のことを思い出すことはほとんどなかったのだが、30年以上経った今でも、彼女のフルネームも顔も彼女にまつわる様々なエピソードもしっかり覚えているというのは、彼女がそれだけ強い印象を残したことを意味しているのだろう。ま、しかし、彼女の方は、僕のことなんておそらく覚えおらず、仮に覚えていてくれてたとしても、「同じ学科にいた男子の一人」くらいの認識だと思う。

岡本、次の一時帰国時には行きたいな。