歳月列車

米国での日常、そして、忘れえぬ日本の思い出

そして、誰もいなくなる

職業柄、4月は非常に忙しく、特に今年は会議やら採用の面接やらが重なって、自分のオフィスで仕事を片付ける暇がなかなか見つけられず、時間だけがどんどん過ぎていく。しかも、今日は土曜だというのに、夕方から年度末のパーティーがあるので、少々気が重い。同僚がどんなにいい人たちでも、仕事は仕事、週末に仕事関係で駆り出されるのは、何だか損した気分になる。

以前、母が骨粗鬆症による骨折で入院したことを書いたが、退院して2週間もしない間にまた同じところを骨折、再び入院となった。また、長年服用していた精神安定剤への依存も高まっているようだ。78といえば、今の日本社会ではそれほど高齢ではないのだろうが、父の死以来辛うじて保ってきた精神的・肉体的バランスがここに来て崩壊し始め、精も根も尽き果ててしまったようだ。

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僕はしばしば思う、果たして母は幸せな人生を送ってきたのだろうか、と。以前の記事では母が感情的な人だということを書いたが、母がたどってきた人生を思うと、彼女の感情の起伏の激しさには極めて正当な理由があるように思う。

母の出身は、四国の田舎町。そこから神戸へ嫁いできて、長い間、姑・舅・小姑たちによる陰湿ないじめを受けてきた。姑・舅は、僕にとっては優しい祖父母であったが、母にとっては、「長男の嫁の責任」という当時の女性たちが抗うことのできなかったマジックワードを使って、理不尽な要求を次々と突きつけてくる恐ろしい存在だったらしい。これには、家のしきたり云々とかだけではなく、借金の建て替え返済といった経済的な要求も含まれていたらしい。ま、僕から見ても、父方の祖父母は、幼い孫(つまり僕)をパチンコ屋に連れて行き、タバコをプカプカふかしながら、僕を膝の上に乗せてパチンコに興じるようなちょっと風変わりな人たちで、経済的・社会的な規律に欠けていたであろうことは、十代の半ばにはすでに感づいていた。

僕が17のときに祖母が突然亡くなり、湊川の家には祖父が一人残されたわけだが、大正生まれの元軍人であった彼は、家事をこなす能力を全く持ち合わせておらず、結局、長男である僕の父が引き取ることになり、彼の実際の世話は長男の妻である母にのしかかってきた。そこから、祖父の亡くなる十数年間は、母にとっては決して幸せな日々ではなかった。散々自分をいじめ抜いた老人の世話(そして介護)を強要され、神戸市内・近辺に住んでいる小姑たちからは全く協力を得られず、それに加えて、夫と三人の子どもたちの面倒も見なければならない。

これらをすべて、嫁・妻・母であるという理由だけで無償労働として行うわけだ。今、自分がそのような立場に置かれたとしたら、おそらくひと月も我慢できず、発狂寸前にまで至ってしまうだろう。実際、母もこの時期、かなり精神的に参ってしまい精神安定剤の服用を始めたらしい(僕は、これを随分後になってから知ったのだが)。

ただ、老いゆく祖父と長男家の嫁としての母との力関係が変化したのも事実で、我が家に越してきてから数年のうちに、祖父は家族内での権力者としての地位を確実に失い、母がいなければ何もできない一老人になってしまっていた。祖父はその最晩年には高齢者施設に入り、最期は母に感謝して亡くなったそうだが、映画や小説ならいざしらず、現実の世界では、最期に感謝の言葉を述べられたからといって、それまでの数十年の苦労や恨みが解消されるわけではない。

母の四国の実家との関係はどうであったかというと、実は、こちらもいろいろあった。こちらはかなり複雑で、ここではあまり詳しく書くことはできないが、母とその妹たち(つまり、僕にとっては叔母)との間には、長きにわたる対立関係が存在している。母と叔母たちが最後に顔を合わせたのは、10年ほど前の祖母の葬式のときであり、それ以降は完全な絶縁状態が続いている。母同様、叔母たちも高齢なので、僕も心配はするが、こういう状態を改善するための時間も気力も今の僕にはない。果たして、叔母たちが生きているのかどうか、それすらも僕は知らない。

母は、70代に入った頃から、僕に彼女自身の生い立ちや実家の家族との関係なんかをかなり詳細に語るようになったが(これは生前の父も同様でした)、その過程で、僕がまだ二つの頃に亡くなった祖父の話も出てきた。当然、僕には祖父に関する記憶が全くないのだけど、母によると、かなり傲慢で癇癪持ちで祖母に暴力を振るうような人だったらしい。母は祖父のことが「大嫌い」だったそうで、これを聞いたとき、僕は少なからず驚いた。40年以上前に亡くなった親を、今でも「大嫌い」と呼べるほど嫌っていること、そこには「思い出補正」の入る余地が全くないことを知り、母が祖父に対して今だ持ち続けている強烈な負の感情について実感させられたのだ。

と、まぁ、こんなふうに整理してみると、母が非常に感情的な人であったことも自分なりに理解できそうな気がする。実家とも義実家とも常に問題を抱えていた母にとっては、夫と子どもたちが唯一の理解者であり、それゆえ、僕たちに対する理想も高く、その理想と現実との乖離が大きくなったときに、母の感情が高ぶったのだと推測する。

もうひと月もしないうちに、僕は再び日本へ行くことになっている。今、母は病院のリハビリ階におり、僕が一時帰国する頃に退院している可能性は極めて低い。退院していたとしても、その後は高齢者施設のショートステイを利用する予定なので、母が自宅に帰るのは随分先の話で、もしかしたら、もう帰ることがないかもしれない。

しかし、掃除や片付けのために、やはり実家には行こうと思っている。祖父がいる頃には6人と1匹の大所帯が暮らした実家だが、今はもう誰もいない。決して広い家ではないが、母一人には広すぎる家だ。そこに母さえもいないというのは、何だかとても奇妙な現実のように思えるが、家族というのは、こんなふうにして一人ひとりが様々な理由で去っていき、そこに誰かが暮らしたという記憶さえもいずれは消滅し、そうやって終焉を迎えるものなんだろう。ほんの数ヶ月前までは、母のこと、実家のことをそんなふうに考えたことはなかったが、僕が20数年間を過ごしたあの実家の終焉は確実に近づいているようだ。