歳月列車

米国での日常、そして、忘れえぬ日本の思い出

伊香保(あるいは、つげ義春的露天風呂)

伊香保温泉は、文学や映画にたびたび登場して、例えば林芙美子の『浮雲』やその映画版などは繰り返し読み、観ているので、若い頃から一度行ってみたいと思っていた。が、一度も行く機会を得ないまま渡米してしまった。もちろん、定期的に一時帰国はしていたが、関西から群馬は遠いし、東京からでも電車やバスを乗り継がねばならない。レンタカーを使うという手もあるが、米国で毎日運転しているので、日本にいるときくらいは運転からは解放されたい。そんなわけで、伊香保行きのことはずっと心の片隅にありながら、なかなか実行に移すことはなかった。

それが6年ほど前、とある偶然がきっかけでついに実現した。大学生の頃から仲のよかった友人Mちゃんが、夫の仕事の関係で埼玉県へ引っ越したのだ。埼玉といっても、川口とか和光とか東京寄りの埼玉ではなく、限りなく群馬に近い埼玉で、彼女の自宅から伊香保まで車で40分ほどらしい。それまでは、Mちゃんとは、僕の一時帰国中、新宿あたりで会って映画を見たり食事をしたりというのが定番だったが、今度は僕の方からそっちへ行くので伊香保へ連れて行ってよ、と持ちかけると、もちろんいいよ、と快諾してくれた。こうして、人生初の伊香保行きが決定した。

時は5月の中頃、新宿湘南ラインに乗り1時間半ほどで彼女の自宅の最寄駅へ到着。そこから、彼女の車で伊香保へ向かった。途中で水沢うどんを食べたり、道の駅で止まったりと、道草を食いながら、昼過ぎに伊香保に着いた。

三次元の世界で初めて対面する伊香保は、期待以上でも以下でもなかった。例の有名な長い急な石段は、古い映画でもう何度も繰り返し見ていたので、どうしても初めてという気がせず、やあ、ついに会えたね、という感じだった。それは、何年もSNSやEメールやアプリだけでつながっていた知り合いと、初めてリアルで会ったときの感覚に通じるものがあったかもしれない。

こんなふうに感動の対面には程遠かったわけだが、それでも、5月の晴れ渡った日の午後、涼しい風に吹かれながら温泉街を散策したり露天風呂に入ったりするのは、愉快で心地よかった。日本へ行っても、仕事と休暇半々どっちつかずで、東京や大阪の人だらけの所でほとんどの時間を過ごす自分にとっては、こういう100%の休暇、つまり、仕事から完全に遠ざかれる一日は、とても貴重でとてもありがたかった。

ま、ここまでは、伊香保ってええよね、温泉って気持ちええよね、というごく普通の話なんだけど、これには後日談があって・・・。先月の一時帰国中、伊香保を再訪した。去年は、Mちゃんと東京で会ったので、今年は僕が埼玉まで行くことになり、なら、また伊香保へ行こうとなったのだ。

しかし、今回は梅雨の真っ只中。予報を見ると、その日は100%の確立で雨、しかも大雨かもしれないとのこと。なので、とある旅館の日帰り滞在というサービスなるものを利用した。最長6時間滞在できて、温泉にも入れて、しかも食事付き。そこそこの料金だが、いつも利用している旅行サイトでの評価は高く、掲載されている写真も豪華で、躊躇することなく予約した。

が、これがとんでもない旅館だった。昭和のまま時が止まったような、改装・改修とは全く無縁のまま過去40年ほどを過ごしてきたような大時代的な旅館で、一歩足を踏み入れたとき、まるで異世界に放り込まれたような錯覚に陥ってしまった。客は僕たち以外にはほとんどいないようで、広いロビーはがらんとしており、ちょっと薄ら寒くなってくる。対応してくれた女将さんは非常に親切で愛想がよく、小綺麗にしていて現代的であるが、薄暗い古ぼけた旅館とは完全に調和を欠いており、逆にこの旅館の異様さに拍車をかけている。

チェックインを済ませて部屋に荷物を置くと、お風呂へ案内される。内風呂は、古く暗く汚く、これは旅館に足を踏み入れたときから想定済みだったので、さほど驚かない。問題は、露天風呂だ。こちらは、庭に穴を掘って泉源から湯を通しただけの代物にすぎない。一体、これがどう化けたらあの旅行サイト掲載の、幽玄で「もののあはれ」的なムード満載の写真になるのだと真剣に考え込んだ。

むき出しの、ちょっと泥のついた岩に腰掛けて湯に浸かりながら、つげ義春の一連の温泉漫画と紀行文を思い出さずにはいられなかった。この手のひなびた旅館、彼なら好んで泊まったのだろうけど、僕はやはり、明るく衛生的で近代的な宿が好きであり、つげ義春の漫画はあくまで読んで楽しむべきものであることを再認識。ただ、同行者Mちゃんは、1時間以上も風呂に浸かった後、ああ気持ちよかったと部屋に帰ってきたので、僕よりははるかに大らかで肝が座っているようであった。

せめてもの救いは、部屋が清潔で(もちろん古いです)、食事がそこそこ美味であったことだ。食事のあと、チェックアウトまでけっこう時間があったので、布団を敷いてゴロゴロ、ダラダラしながら、二人でとりとめのないことを話した。宿はしょぼかったが、ゆるりと休日を過ごすという当初の目的は果たせた。

ただ、この宿がなぜあの旅行サイトであれほど高評価だったかは今だに謎だ。サイトを通して予約した人しか投稿できないので、信頼できると思っていたのだが。