歳月列車

米国での日常、そして、忘れえぬ日本の思い出

さよなら日本、また会う日まで〜2023年夏〜

日本への一時帰国がついに終わり、帰りの飛行機でこれを書いている。3週間ちょっとの滞在だったが、いつものことだが、あっという間だった。今回は、来日初日からぎっしり予定を入れすぎており、その疲れが出たのか、大阪滞在中に体調を崩してしまい、北浜のホテルで丸2日間ダラダラしていた。入れていた予定も泣く泣くすべてキャンセル、近くのフレスコで食料を調達したり、天満橋あたりまで散歩したりする以外は、ホテルにこもって、読書、食事、昼寝の繰り返しだった。今回は、大阪にいる間に久々の京都行きも予定していたのだが、無念なことにそれも中止とせざるを得なかった。ま、こんなことでもない限り、好きな本を読みながら一日中のんべんくらりすることなんてないので、これも怪我の功名ということで、良しとせねば。

3週間も旅をしていると、当然疲れもたまってきて、早く自分の寝室のベッドで眠りたい、慣れ親しんだいつもの朝食を食べたい、そして何より、我が家の柴犬くんをこの手でぎゅっと抱きしめてクンクンと匂いをかぎたい、という気持ちがだんだんと強くなってくる。ただ、やはり、日本滞在が終盤に入ると、名残惜しさや不安や未練やなんかがグチャグチャに入り混じった感情に心が支配される。今日、日本を離れてしまえばもう二度と戻ってくることはできないんじゃないか、という根拠のない恐怖が湧き上がってくる。したがって、日本を去る日の精神状態は、毎度のことながらあまり芳しくない。

それにしても、自分は一体何を求めているのだろうとしばしば自問する。米国ではそれなりに安定した仕事と生活を手に入れ、家族にも恵まれている。自分の能力なり素質なり努力の度合いなりを考慮するとき、経済的にはほぼ満足しているし、もうこれ以上は望めないだろうと理解もしている。また、米国は、外国人に対してとても寛容な社会で、それには非常に感謝している。もし米国ではなくどこか違う外国で就職していれば、過去20数年の僕の人生は、もっと困難なものになっていたかもしれない。

ただ、日本を去るときに感じる、何か自分のとても大切な一部を引きちぎられ、それを置き去りにしなければならないような感覚は、渡日〜米国への帰国という過程を何度経験しても変わらない。

僕は別に国粋主義者でも愛国的ナショナリストでもないので、イデオロギー的に日本を愛しているわけではなく、ここで僕が言わんとしているのは、日本での何気ない日常––ちゃんと時間通りに来る電車や、気軽に一杯できる立ち呑み屋などなど––とその日常に暮らす僕が大切に思う人たちのことだ。自分がその日常の風景の一部になれないことに、強烈なもどかしさを感じる。こういった感情というのは、おそらく、自分の生まれ育った国を出て海外で生活する人の多くに共通するのだろうが、彼らはそんな感情とどう向き合っているのだろうか。もうすぐ50になるというのに、「知命」はおろか「不惑」にすら達していない自分だ。

写真は、今回の日本滞在中に訪れた東京は柳橋界隈。最寄り駅は、JRの浅草橋。神田川と隅田川が合流するあたりに柳橋という橋がかかっており、それが知名の由来だ。その昔、けっこう大規模な花街があったらしい。幸田文の『流れる』では、戦後初期、花街が繁栄していた当時のこの界隈の様子が描かがれている。今は普通の住宅街なのだが、それでも、神田川に浮かぶ尾形船なんかを見ていると在りし日の面影がなんとなく伝わってくる。この日は、入梅前のからりと晴れた涼しい日で、普段米国で「歩く」という行為から遠ざかっている自分でも、どこまでも歩いていけそうなそんな気持ちのいい日だった。

大阪では、街の中を流れる大小様々な川とそれらに架かる様々な橋が「大阪的」な都市風景を形作っていて、僕が淀屋橋〜北浜〜天満橋といった界隈を愛する理由もその辺りにある。東京の場合、新宿、渋谷、池袋といった繁華街のある西側には川も橋もあまりないが、東側に行くとたくさんあって、大阪を思い出させる。

ま、いずれにせよ、僕が米国にいてたまらく懐かしく思うのは、東京にしろ大阪にしろ神戸にしろ、思い立ったらふらっと出かけていき、街歩きを楽しみ、帰りにビールでも一杯飲んで帰る、というそんな風な日常だ。日本に住んでいる人たちにはどってことない日常なんだろうけど、僕にとってはとても貴重な、そしておそらくもう二度と取り戻すことのできない日常だ。