歳月列車

米国での日常、そして、忘れえぬ日本の思い出

三ノ宮再開発と駅前風景の均質性

この夏の一時帰国時、いつものように三ノ宮・元町界隈をぶらぶらしていたのだが、JR三ノ宮の駅前にあったターミナルホテルが取り壊されて、完全に更地となっていることに気づいた。あのホテルは、僕が物心ついたときからあって、1階の喫茶店は待ち合わせや休憩でよく使ったし、大学時代にはあの中のフランス料理レストラン(何階だったか忘れたが、「シャンテクレール」といったかな?)でウェイターのバイトをしたこともあるので、思い出深い場所だった。それが消えてしまい、そして、駅の向こうの山側の景色が、海側から一望できるというのは、なんとも不思議な、ちょっぴり非現実的な感覚だった。

ターミナルホテル取り壊しは、よく知られているように、神戸の都心再開発の一環だ。阪急三宮の方はすでに駅ビルが完成しており、西口はすっかり見違えている。JRの駅ビル開業は2029年だというからまだまだ時間がかかるが、計画がついに着工し、未来のの三ノ宮駅前が具体的な形で想像できるようになったわけだ。1995年の阪神・淡路大震災から28年、長かった。

大阪・京都と比べると大きく遅れていた神戸の都心の再開発が進んでいるのは、素直にうれしいが、同時にちょっと冷めた目で見ている自分もいる。新しい駅ビルにどんなテナントが入るのかは全く知らないが、おそらくスターバックスあたりのカフェがオープンテラスを構えて、全国チェーンのレストランがいくつか入って、さらに、ちょっと神戸感を演出するために、地元のおしゃれな洋菓子店にもカフェを出店してもらって、という感じになることはおよその見当がつく。ここ数十年、日本全国の都市部で行われてきた再開発の場合と同様、均質化された駅前の風景がここ三ノ宮にも誕生することになるのだろう。

都市の風景の均質化は近年特に加速し、その月並みさはもう相当なレベルに達しているような気がする。どこに行っても同じ店、同じ品物、同じサービス。もちろん、これは日本に特有の現象ではなく、例えば、僕の住む米国の郊外モールの均質性は、日本の駅ビルのそれの比ではなく、東海岸でも西海岸でも中西部でも、どこへ行ってもちょっと怖いくらい同じ店が並んでいる。

日本全国どこにいても同じような店で同じようなものが買えるというのは、一方では市場の民主化のような気もするけど、街歩きが陳腐になってしまったのも真実だと思う。都市が郊外や田舎と決定的に違うのは、前者には、何があるか分からない、何が起こるか分からない予測不可能な空間があることだと思う。表通りから外れた狭い通り、ちょっと薄暗い路地、そういった場所にある古本屋や酒場やお好み焼き屋やその他諸々のちょっと怪しい店。僕が子供の頃、湊川や新開地、元町が大好きだったのは、そこにはそういった場所が無数にあって、行くたびにワクワクドキドキしたからだが、日本の多くの街からは、今そういう空間がどんどん消えていき、明るく衛生的で無機質な空間に取ってかわられている、つまり、街の都心部がどこも郊外のショッピングセンターのようになりつつあるような気がする。

もちろん、こういった均質な場所に利点があることは、重々承知している。ちょっと喉が乾いたらローソンでお茶、小腹が空いたらドトールでサンドイッチ、外出先で服を汚してしまったらユニクロでTシャツというふうに、そこそこの規模の街の駅周辺では、たいていのモノがとても簡単に買えてしまう。一時帰国中はあの街、この街とフラフラしている僕のような旅人にとって、これは本当にありがたい。また、都市住民の中には、刺激や発見より利便性と簡潔さを優先する人々も多くいるわけで、そういった人たちには、昨今の都市部の再開発は歓迎すべき動きだと察する。

なので、僕は、自分の感じている街並みの変化に対する違和感が万人を代表するとは全く思ってはいない。これは、あくまで僕の個人的な感想であり、その根っこには消えゆくものに対する中年男の郷愁があることは、自分でもよく分かっている。