歳月列車

米国での日常、そして、忘れえぬ日本の思い出

神戸、1993年の寒い夏

最近は地球温暖化の影響もあって、毎年夏が異常に暑い。僕の住む米国東部の街でも、35度くらいまで上がる日がけっこうあって、そういう日は心も体もげんなりしてしまうし、我が家の柴犬くんも散歩に行ってくれない。しかし、ここに長く住んでいる人に聞くと、昔はもっと涼しかったらしい。それは、日本も同じで、今、真夏の神戸なら35度でもそれほど驚かないが、僕が子供の時分は、30度くらいでも暑い暑いと文句を言っていた。僕の育った町は、当時はまだ開発途上で近くに自然がたくさん残っていのたで、熱帯夜というのがほとんどなく、夜はひんやり涼しかった。と、こんな話を、6月に一時帰国した際、母としていたのだが、そのときに、1993年の夏の話になった。

あの夏は、今ではちょっと想像できなくらいの冷夏だった。雨と曇りの日が多く、気温が上がらず、一体いつ梅雨が明けて夏が来るのだろうと思っていたら、9月になって秋になっていた、という何だか張り合いのない夏だった。日照時間が短かったせいで米不足になり、日本社会がパニックになったのもこの年だった。

この夏のことは、とてもよく覚えている。当時、僕は大学生で、ちょうどその年の春、バイト代や小遣いを貯めて日産の中古車を買っていた。夏になったら、この車で海へ行こうと楽しみにしていたのだが、友人やバイトの仲間なちと海行きを計画しても、どんより曇り空だったり、雨が降ったりで計画変更を余儀なくされることが多く、冷夏がうらめしかった。

それでも、暇は見つけては、須磨や舞子、明石の江井ヶ島(これは、島ではありません)、ちょっと遠出して、姫路の的形(「まとがた」と読みます)まで出かけていったりしていたのだが、あの夏はどこの浜辺へ行っても人が少なく、また海の家が出ていないことも多く、あまり夏を満喫できる雰囲気ではなかった。一度、地元の友人二人と連れ立って舞子へ行ったとき、ついた途端に雨が降り出し、嵐の様相となり、へたれの僕はもうそこで海へ入ることは断念した。が、友人のひとりは、せっかく来たのだからと、僕たちに傘をささせて水着に着替え、嵐の中、果敢にも水の中へ入っていったが、3分ほどでブルブル震えながら出てきて、3人で大笑いした。

と、まぁ、こんなふうに1993年の夏は、決して理想的な夏ではなかったのだけど、僕はあの夏――日産のポンコツ車、くすんだ灰色の空、雨のしとしと降る浜辺などなど――を今でも時々懐かしく思い出すときがある。というのも、今から振り返ると、あれが自分の人生において、たいした心配事もなく安穏と過ごすことのできた最後の夏だったからだ。その後は、大学での学業にもう少し真面目に取り組むようになったり、私生活でも多くの変化があったりと、夏休みといってもあまり遊んでばかりもいられなくなった。それにともなって、交友関係も変わっていった。また、大学の卒業が近づいてきたこともあり、将来の身の処し方を真剣に考えることも多くなった。

その頃から、すべきこと、考えるべきことが次から次へと立ち現れてきて、常に時間に追われているような、常に何か心に引っかかっているることがあるような感覚にとらわれ、その感覚は今でもずっと続いているような気がする。もちろん、愉快なこと、面白いことは、あの夏以降もたくさん体験してきたけど、何をしていても、より現実的でより冷静なもうひとりの自分ががちょっと離れた所から僕をじっと見ているようで、何かを100パーセント心から楽しむということは、ほとんどなくなってしまった。早い話、あの夏に思春期が終わり、苦しきこと多かりし大人の季節がやってきて、それまで苦労も努力もなく維持してきた無邪気な感性みたいなものを永遠に失った、ということだと思う。

それにしても、大学生になるまで、経済的な憂いもなく、のほほんと思春期を過ごすことができたのは、ひとえに両親のおかげであり、その後はいろいろ理解し合えない出来事があり、常に良好な関係だっとは言えないものの、二人にはとても感謝している。