風歩きの雑記帳

米国での日常、そして日本の思い出

ポートライナーにあこがれた頃

5月に日本へ一時帰国した際、三宮で所用があり出かけていった。阪急百貨店――「そごう」と言ったほうが今でもしっくりくるのですが――からJRの方へ鉄橋を渡っていると、ポートライナーの三宮駅が視界に入って、そこで、最後にポートライナーに乗ったのっていつやったかなと思ってしまった。考えてみるに、今の僕はポートアイランドとは完全に無縁で、なので、ポートライナーに乗る機会というのが全くない。父がまだ生きていたとき一緒に沖縄に行ったのだが、あのときはポートライナーで神戸空港まで行ったかしらんと記憶の糸をたぐってみたが、全然覚えがない。足腰の悪い父と一緒だったので、タクシーを使ったのだろう。とすると、渡米してから20数年、ポートライナーには一度も乗ってないかもしれない。

何故こんな取るに足らない個人的な記憶について話しているかと言うと、ポートライナーに最後に乗ったのは全く思い出せないくせに、最初に乗ったのはいつだったか今でも鮮明に覚えているんです。あれは1981年、まだポートライナーが開通して間もない頃で、僕は小学校の低学年。その日僕と妹は、両親に何かの用事があったとか、そんな理由で湊川の祖父母の家に預けられていた。僕は当時からすでに電車が大好きで、電車の路線図とか時刻表をいつまでも見ているような子供だったので、そんな孫のために祖母が、三宮と人工島ポートアイランドを結ぶために新たに建設されたポートライナーに乗せてくれたのだ。

三宮に向かうとき、祖母が、ポートライナーには運転手がおらんねんで、と教えてくれたのだが、僕は、車掌はいざしらず、運転手のいない電車が一体どのように動くのか全く想像できず、ほんまにそんな電車あるんか、と半信半疑だった。しかし、ポートライナーは、コンピュータ制御による無人運転を実現した日本初の交通システムなわけで、それに実際乗った時の衝撃といったらなかった。SF小説から抜け出てきたような無人運転のポートライナーは、高架の線路を緩やかに滑る車両からの真新しい人工島の風景と相まって、科学が高度に発達した来たるべき世界の具体像みたいなものを僕に植え付けた。

ポートアイランドでは、その春からポートピア’81が開催され、僕は自分自身の両親や友人の家族に連れられて何度もこの博覧会に足を運ぶことになる。その際、ポートライナーにも何度も乗車した。初体験のときのようなあの強烈な記憶というのはないが、それでも、毎回乗車を楽しみにしており、博覧会そのものより、ポートライナーの方をむしろ待ち望んでいたと言っても過言ではない。

教科書的な戦後史の語りでは、高度経済成長の頂点は1964年の東京オリンピックのころで、1970年の大阪万博のころには公害など経済発展にまつわる社会問題がすでに深刻化していて、1973年のオイルショックで高度成長の時代は終わった、みたいなのが一般的だけど、視点をもっとローカルに、神戸都市圏に移すと、成長・繁栄の頂点は1980年代から90年代の初頭にかけてだったんじゃないかと思う。

ポートアイランド、ポートライナーだけではなく、地下鉄沿線の開発など、当時の神戸は変化が激しく、未来に向かって、新しい時代に向かってひたする突き進んでいるような、そんな感じだった。例えば、地下鉄が全線開通して間もないころに初めて訪れた西神中央駅とその駅前のそごうやらプレンティやらの商業施設群は、まるで長閑な農村の中にそびえ立つ近未来の都市のようで、とてもワクワクした。また、90年代の頭のハーバーランドのオープンは、自分のよく知っている湊川・新開地界隈、毎年初詣に行っていた楠公さんのすぐ近くにこんな綺麗なものができたのかと驚きだった。

震災を経て経済低迷と人口減少の時代となった今、華やかだったあの頃の神戸を思うと隔世の感がある。あのような繁栄は、様々な経済的・地理的・人口学的な要因が重なって初めて可能であったわけで、おそらくもう二度とやってくることはないのだろう。

僕の今住んでいる米国東部の街は決して大都市ではなく、市域の人口は20万ちょっとしかないのだが、ここ10年以上、市内でも郊外でも人口が増加していて、もういたる所でマンションや商業施設の建設が続いている。米国の出生率はそれほど高くはないけれど、こちらは移民の数が日本と比較にならないほど多く、また人口を全国から吸い上げる東京のようなメガ都市が存在しないので、こんな中規模の街でも人が増え活気を呈している。もちろん、それにつれて住宅価格も高騰していますけど・・・。

車を運転しているとき、あれ、こんなマンションいつの間にできたんや、え、こんなところにスーパーができとったんや、ということがよくあるのだけど、そんなときは、自分が子供だった頃、今も母が住むあのニュータウンがまだ新しく、そしてとても元気だった頃を思い出してしまう。