風歩きの雑記帳

米国での日常、そして日本の思い出

母という生き方

母が骨粗鬆症による骨折で長期入院していたことは以前書いたが、今は自宅に戻っている。通院は続けているが、入院時と比べると見違えるほど元気になっている。退院後にひと月ほど滞在した高齢者施設がとても気に入って、今でも週一で通っており、それが楽しみになっているようだ。

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去年の初夏に一時帰国したとき、母はまだ自宅には戻っておらず、その間に亡き父の持ち物の整理をした。整理と言えば聞こえはいいが、早い話、処分です。これは、自分では絶対に処分することなんてできないから、自分のいない間にやってほしい、という母のかねてからの要望に答えてのものだった。当日は、二人の妹もかけつけてくれて三人で協力して、作業を行った。我々兄妹は、米国、神戸、大阪と離れており、しかも、それぞれ家族がいるので、三人だけで会って話して何かを一緒にするなんてほとんどない。募る話なんてものはなかったが(笑)、あれこれしょうもない話をし、たくさん笑った楽しい一日ではあった。

大量の処分品が出ることが予想されたので、バッカン(廃棄物回収用の鉄製コンテナ)を手配した。これは、重さに関係なく詰めれるだけ詰めて料金は一律というサービスで、非常にありがたかった。というのも、父は非常に多趣味でモノ作りの大好きな人だったので、釣りの道具や、各種工具類、関連書籍などが膨大な量にのぼっていたからだ。また、記録・収集癖もあり、訪れた外国のコインや切手、旅の記録としての国鉄(後のJR)の使用済み切符、観光パンフレット、果ては、全ての給与明細などなどを細かく整理したファイルもかなりの量だった。

これらを、妹たちと手分けしてひとつひとつ見ていき、残しておくものと処分するものを分別する作業は、思いの外時間がかかった。古本市とかで買ったような文庫本を処分することは、それほどためらわなかったが、父がコツコツと収集したものは、捨てるに忍びず、とりあえず残しておこかということになった。あと、庭に生え放題の雑草抜きも同時に行ったり、その間に、母の見舞いに行ったりと1日はあっという間だった。普段、肉体労働を全くしないヘタレの自分なので、けっこうこたえた。

この作業を通じて、父はそれなりに充実した人生を送ったのだろうと改めて認識した。病気が発覚してから亡くなるまでの7、8年は、ままならぬことだらけだったとはいえ、それまでは、国内、アジア、ヨーロッパと旺盛に旅行し(そのほとんどは、仕事関係ではあったが)、友人や同僚たちと楽しく集い、趣味にもけっこう時間を費やしていたことが、父の残した様々な記録から分かった。当然のことだが、僕にとって父は常に父であり、僕が父を知っていたのはその関係性を通してのみだったので、父の、父としてではなく、働き遊ぶ一人の人としての側面をこうして見ることができたことは、とても新鮮だった。

しかし、僕はそこで思わずにはいられなかった。母が亡くなったとき、僕たちは同じような記録を見つけることができるだろうか、と。母は、家庭を離れたところで一人の人として人生を楽しんできただろうか。僕の知っている限り、母は一人で、あるいは友人と泊まりの旅行をしたこともなければ、お金のかかる趣味を持ったこともない。それどころか、一人で外食したことすら皆無に等しいのではないだろうか。

作業の後、二人の妹と実家で焼肉をしていて、酒も入っていて、ちょっぴり感傷的な気持ちだったのか、そんなことをポロッと口にしたら、二人とも、え、そんなこと思っとんやという反応だった。彼女たちが言わんとしたことを僕なりにまとめてみると、つまりは、母だって趣味を持ったり一人で出かけたりすることはできた、それをしなかったのはひとえに母の内向的な性格によるものなので仕方ない、ということだ。

妹たちの言い分には、一理ある。なので、僕も、ふ〜ん、そんなもんかいなぁ、と適当に返事をして、その話はそれきりになった。しかし、同時に、母の性格だけが全てを説明する理由にはならないと思う。父と母の生き方の違いに、ジェンダーに関する社会的規範みたいなものが関わっているのでは察する。

母が結婚し家事と子育てに忙しかった1970、80年代の日本では、阪神間あたりの有閑夫人ならいざしらず、郊外に住み会社勤めの夫と学齢期の子供を持つ中産階級の家庭の主婦が、息抜きに三宮やら元町やらへ出ていって、そごうや大丸で買い物をして、ワインを飲んだり寿司をつまんだりアフタヌーンティーを楽しんだり、あるいは、子供を夫に預けて旅行したりなんていうのは一般的ではなかった。結婚した女性は妻として母として家のことに専念すべきで、幸福は家庭での生活に見出すべきというイデオロギーがまだまだ根強く残っていた時代だ。四国の田舎から嫁いできて、都市生活を楽しむ暇もなく出産・育児に突入した母は、そんなイデオロギーに忠実に生きたのだと思う。

もちろん、社会の流れはこの20年ほどで大きく変わった。中高年の女性や高齢の人たちや「おひとりさま」たちが、少なくとも都市部では、気軽に外出できるようになったが、母はそういった社会的変化に対応できず、そのまま年老いて体力も気力も衰えていった。もし母があと20、いや10歳でも若かったら、母の生き方はかなり違っていたのではないかと想像する。

上の写真は、元町商店街の入口。向かい側が大丸になる。妹の一人がこの商店街をもう少し行ったところで商売をしている。母は体を悪くしてからは、一度も妹の店を訪れていないので、僕の滞在中に一緒に行こうと計画していた。母も、あんたが一緒やったら安心やわと言っていたのだが、結局、人混みを歩いたりするのはまだ怖いということで直前キャンセル、僕一人で出かけた。