歳月列車

米国での日常、そして、忘れえぬ日本の思い出

弓弦羽神社の桜を思う

20年以上前の写真が出てきました

今年は春の訪れが早い。米国東部のこの街に越してきて今年で7年目だが、雪が降らなかった冬は初めてじゃないだろうか。2月の終わりからどんどん気温が上がって、いつもなら3月の中頃に見頃になるマグノリアと洋梨の花が、今年はもう満開だ。なんと桜も、もう咲き始めている。ここまで早いとちょっと怖い気もする。

桜と言えば、阪神間には桜の名所がたくさんある。有名どころでは、王子公園や夙川、芦屋川なんかがあるが、これら以外にも、思いもかけない場所で美しい桜の花を見つけることがかなりの頻度である。神戸の東灘区に住んでいた時分は、花の季節がやってくると、JRの摂津本山や住吉から自分のアパートまでの帰り道、ちょっと道を変えたり、自転車のときは遠回りをしたりしながら、自分だけの桜の名所を開拓するのが楽しかった。

弓弦羽(ゆづるは)神社の桜を見つけたのも、ちょうどそんな風に、ぬるい春風に吹かれながら自転車を漕いでいるときだった。もう20年以上前のことだが、その日はちょうど日曜で、阪急御影駅近くのマンションに住む上司の家で昼のご飯をごちそうになり、その帰りだった。自転車で摂津本山方面へ向かうなら、山手幹線をそのまま東へ直進すればいいのだが、ぬくい春の夕暮れのこと、急いで帰る必要もなく、山手幹線の北側の閑静な住宅街の中をいい気持ちでゆっくり東進していると、突如、あまりに豪勢な桜のアーチが出現、思わず自転車を止めて見入ってしまった。何だ何だと自転車を降りて散策開始、それが弓弦羽神社だということが分かった。

家に帰って相方に報告し(今なら、きっとスマホで写真を撮り、そのままラインで送るんでしょうけどね)、数日後、彼を案内して再訪、その後は、桜の季節が来るたび、幾度となく足を運ぶことになった。今でこそ、弓弦羽神社は桜の名所として有名だが、インスタもフェイスブックもなかった当時はまだまだ穴場的存在で、そんな場所を見つけた自分が何だかとても誇らしかった。

日本について懐かしいこと、恋しいことは無数にあるが、冬の終わり、春の始まりの季節感ほど僕の郷愁を誘うものはない。僕が住んでいる米国東部の街にももちろん冬の終わりはやってくるし、当地の季節の巡り方は関西や東京のそれとよく似ているが、恋しいのは季節の移ろいそのものだけではなく、それに付随する日本での思い出、つまり、今や遠い海の向こうの地となってしまった日本に自分が確かに存在し、生きたことの証としての思い出だ。

その思い出というのは、弓弦羽神社の満開の桜はもちろんだが、母の作った甘辛いイカナゴの釘煮や、春の日の昼下がりに相方と巡った灘の酒蔵や、阪急の車窓から見た春霞の六甲山などなど、他人からすると取るに足らない他愛のないことばかりなんだけど、こういった懐かしい記憶というのは、いくらお金を積んでも買うことはできないし、また、遡及的に構築して脳にインプットすることも(少なくとも今の科学技術では)無理であって、その意味においてとても貴重だと思う。

昼の休憩時なんかにちょっと外へ出て、ベンチに座って柔らかい陽射しを浴びながら目を閉じると、そういった春先の思い出が次々とよみがえってくる。それは幸せな時間でもあるけれど、その一方で、今の仕事をしている以上、この季節に日本へ行くことはほぼ不可能であるという冷徹な事実を思い知らされる瞬間でもある。今の僕にできるのは、記憶を通じて想像の世界で日本の春を追体験することのみです。