歳月列車

米国での日常、そして、忘れえぬ日本の思い出

神戸メリケンパーク

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小さい頃から港に対する憧れが人一倍強かった。港や波止場や埠頭や船にまつわる映画を観たり小説を読んだり歌を聞いたりすると何だか体がゾクゾク、心がソワソワして、いまだ見たことのない海の向こうの街と人に対する好奇心が刺激された。アメリカに来て初めて住んだのは、カリフォルニア州の港町。坂が多く少し神戸に似ていた。地形上、春から初夏にかけて霧が多く発生する場所で、朝方、霧の中を散歩しているときに霧笛が聞こえてきたりするととても幻想的で、いかにも港町という風情だった

そんなわけで、子供の頃から神戸の中でも元町からメリケンパークへと続くエリアは僕のお気に入りだった。若い子なら三宮でお買い物、というのが普通なのだろうけど、僕は、今はなき丸善で読めもしない洋書や珍しい舶来品を手にとってみたり、これまた今はなき海文堂で海関連の本を立ち読みしたり、南京町で中国の菓子(僕は、なぜか月餅が異常に好きだった)を物色することの方がずっと楽しかった。三宮より元町の方がはるかに「みなと神戸」を実感させる場所であることを、子供ながらすでに感じ取っていたようだ。

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大丸前の交差点を西へ行けば元町商店街だが、鯉川筋をそのまま海側へ歩けばメリケンパークだ。今でこそかなり観光地化されているが、僕の少年時代には、まだ波止場にあるただの公園という感じで、そこでぼーっと海や船を眺めながらいろいろな空想・夢想に浸っていると時が経つのを忘れた。

今僕の住んでいるアメリカ東部の街には、海がない。海の匂いや霧笛の音や潮風の肌触りが無性に懐かしくなるときがある。なので、今でも日本へ帰省すると、必ず暇を見つけてはメリケンパークまで足を延ばす。実際に海の向こうに住むようになった今、そこでの生活が単に甘い夢の延長ではないことは充分すぎるほど理解している。しかし、今でもあの神戸の波止場に立つと、異国的なものに憧れた当時の気持ちがよみがえり、まだ見ぬ新たな場所を訪れたいという衝迫に駆られる。

海老のアヒージョ Gambas al ajillo

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ワインに合うおかずを、ということで、海老のアヒージョを作った。スペイン語でアホajoとはにんにく、アヒージョajilloとはにんにくを小さく切ったもの。たっぷりのにんにくとオリーブオイルで食材を煮る料理だ。

レシピをいろいろ見ると、250グラムの海老に対してにんにく8片を使うものがあり、ちょっと腰が引けた。にんにくは好きだけど、これはさすがに多すぎやしないか、と。

結局、複数のレシピを参考にしながら、にんにく少々控えめに、オリーブオイルも気持ち少なめに仕上げた。オイルは、もっと冒険してどばっと入れてもよかったかとも思う。10分程度でできてしまう簡単料理だが、あなどることなかれ、海老のうまみが凝縮された一品に仕上がった。ワインはもちろん(赤を飲みましたが、白の方が合うかも)、ビールにもハイボールにももカクテル(例えば、マンハッタンとか)にも合うと思う。この日は、相方がちょうどパンを焼いていたのだけど、海老のうまみの溶け出したオイルにつけて食べると、思わず顔がほころんだ。

 

 

サイモン&ガーファンクル

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中学生の頃の数年間、サイモン&ガーファンクルに夢中だった。熱病にでもかかったように、来る日も来る日も聴き続けた。

今から思うに、凡庸で刺激に欠けた郊外のニュータウンに育った僕は、聴くもの、読むもの、観るもののすべてにおいて、ニュータウン的凡庸さの対極に位置するもの、すなわち、都会的なものを無意識に探し続けていたように思う。僕がS&Gに陶酔したのも、根底には都会的なるものへの強烈な憧れがあったように思う。

当時は、CD時代のちょっと手前で、まだまだレコードが主流。近所の貸しレコード屋(そんなのが昔はありましたね)でレコードを借りてきたり、そこにないLPは、三宮のセンタープラザとかにあったセコハンレコードの店で探し求めたりした。

ポール・サイモンの創るなめらかで優しいメロディや、彼のちょっと鼻にかかった、いかにもアメリカ人的な声(アート・ガーファンクルの澄みきった声もよかったが、僕はなぜかポールの声により強くひかれた)ももちろん魅力ではあったが、僕は、何よりポールの書く詞にのめりこんだ。彼の詩は繊細で内向的で心地よい程度に難解で、僕は、アメリカの都会人の生活を自分の小さな寝室で空想しながら、LPからカセットへダビングしたものを擦り切れるほど聴いた。

例えば、「サウンド・オブ・サイレンス」や「アイ・アム・ア・ロック」の孤独と疎外の世界は、部活にいそしむ平凡な14の少年には未だ経験なきものだったが、大人として都会で生きるとはこういうことか、と何となく分かった気でいた。

「4月になれば彼女は」や「キャシーの歌」などの美しい風景描写は流麗で、僕をうっとりさせた。例えば、「キャシーの歌」はこんなふうに始まる。

I hear the drizzle of the rain

Like a memory it falls

Soft and warm continuing

Tapping on my roof and walls

こぬか雨が聞こえる

思い出のように落ちてくる

やわらかく、温かく続いてる

僕の家の屋根や壁をたたきながら

これらの歌を聴いていると、自分の部屋の窓から見る似通った家々とアスファルトと電信柱といった月並みな風景が、まだ見ぬニューヨークはセントラルパークの風景へとすり替わっていくようだった。

数あるS&Gの曲の中でも僕のお気に入りは、「ボクサー」だった。都会に出てきた青年が数々の苦難に押しつぶされそうになりながら故郷を思う、というストーリーだ。”I am just a poor boy (僕はただの貧しい少年なんだ)”という告白から始まる詩には、すっかり打ちのめされてしまった。歌詞を翻訳を通してではなく、生で理解したいと思い、一語一語辞書を引いたのをよく覚えている。

あれからもう何十年も経ち、僕自身もそれなりの知識と経験を積んできた。今から見ると、ポール・サイモンの歌が、反戦運動・公民権運動が伝統的な価値観や生き方を激しく揺さぶっていた60年代アメリカにおける左翼的知識人文化の産物だということがよく分かる。そこには、ある種の階級意識やナルシズムが潜在していることも、今ならよく分かる。ただ、当時はそんなことは知らず、S&Gの唄う都会生活の孤独と寂寥が最高にクールだと思いながら聴いていた。文化的・歴史的コンテクストなどを取り払ったところで、心に響くかどうかだけを基準に音楽を聴いたり映画を見たりできるのは子供の特権であり、それはそれでとても幸せなことだったと思う。

『水曜の朝午前3時』に始まり『明日に架ける橋』で完結する、S&Gの6枚のオリジナルアルバムを聴き込んだ後は、それぞれのソロアルバムも聴いてみた。ポールの『ポール・サイモン』や『グレイスランド』、アートの『レフティ』なんかは、少ない小遣いを貯めてLPを買いそれなりに聴いたが、なぜか、あの6枚のアルバムのような感動はもうなかった。

ああ、新開地

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新開地は、神戸近辺以外の人にはあまり馴染みのない場所かもしれないが、戦前の神戸の中心地。映画館や芝居小屋、飲食店の密集する、関西随一の繁華街だった。戦争中の空襲で焼かれ、戦後は少し東の三宮へ人の流れの中心が移っていった。

新開地とは子供の時分から不思議に縁があった。湊川公園から東山商店街を抜けて、少し北に行ったところに父方の祖父母が住んでいたので、新開地の商店街へも両親や祖父母に連れられよく行ったものだ。当時の新開地は、あまり治安のよくないところもあったりして子供が喜んで遊びに行くような場所ではなかったが、あの雑多で下町的な雰囲気は、多様性と変化に乏しいニュータウンで育った僕にはとても刺激的だった。

「新開地」という街の名前にも好奇心をそそられた。「新たに開かれた土地」という意味だが、僕の知っている新開地はむしろ古臭くて、三宮の華やかさとは対照的だった。一体なぜこんな名前がついたのかと子供心に不思議だった。ずいぶん後になってから、神戸の歴史書や谷崎の『細雪』を読み、戦前の新開地の繁栄を知ることで、この名前についても納得がいった。

新開地の地下にはメトロこうべがあり、高速神戸駅〜JR神戸駅へ続いている。このあたりはは、1990年代初頭にハーバーランドができてから開発が進み随分立派になったけど、それ以前は、なんとなく薄暗い、都会の真ん中にしてはひなびた場所だった。元日は、家族みんなで、高速神戸の駅の真上にある湊川神社(僕たちは楠公さんと呼んでいたが)を訪れるのが毎年の習慣だった。寒い年の元日はこの地下街を重宝した。

僕の子供の頃は、この地下街にまだたくさん古本屋があって、本好きの父に連れられよく行ったものだ。僕は、今でも地下街と古書街が好きで、例えば札幌やモントリオールの巨大地下街、東京・神保町の古書街を初めて訪れたときはいたく感激したが、その原点は、子供の頃のメトロこうべという体験にあるのかもしれない。

大学生になってからは、通学の際の電車の乗り換えが湊川だったので、講義が早く終わりバイトがないときなどは、新開地をうろつくことがしばしあり、いろんなことを学んだ。

初めての仕事もなぜか新開地だった。そこの仕事は午前中のみで、午後は大阪で別の仕事、という日が多かったので、新開地での仕事が終わると、商店街を南下しながら昼ごはんを食べられる店を探した。お腹を満たすと、高速神戸まで運動がてら歩き(といっても、とても短い距離だけど)、阪急の特急に乗り大阪へ向かった。神戸アートビレッジセンターを見つけたのは、そんな風に商店街を歩いているときだった。震災から何年か経っており、新開地が少しずつ変わっていくのを実感した。

アートビレッジセンターといえば、ここで確か成瀬巳喜男の特集があったのを覚えている。当時は、成瀬映画はほとんビデオになっておらず、衛星放送で流れるのを待つくらいだったので、ここでまとめて成瀬映画が見れるのは感動モノだった。『めし』を初めて見たのはたぶんここだった。

その後、僕は渡米してしまったわけだが、今でも帰国したときはなぜか足が新開地・湊川へ向いてしまう。数年前は、三宮・元町や灘・東灘方面はよく知っているが、兵庫区には行ったことがないという相方を案内したら、えらく感動していた。前回は(といってもすでに2年以上前になるのだが)、東山商店街から始め、新開地界隈をぶらぶらし、メトロこうべにも潜り込み、最後は世界長で一杯飲んできた。

今となっては、祖父母も父ももうこの世にはいないが、新開地のことを思うと、逝ってしまった人たちが無性に懐かしくなり、あの頃に帰って一緒にそぞろ歩きたくなる。

ぜんざいのもたらす幸福

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ときに無性に食べたくなるのがぜんざいだ。スイーツに関してはただならぬ欲望を持った国民を多く抱えるアメリカに住んではいるが、和菓子は全くポピュラーではない。饅頭や大福などは近所の日系商店で買えるが、ぜんざいはそういかない。寒い冬の日、たまたま入った喫茶店でぜんざい(あるいは、しるこ)を食べてほっくりした気分になる、という体験は、こちらでは絶対にない(もしかしたら、ロサンゼルスあたりなら、ありうるかも?)。

なので、普段は小豆を炊いて自家製あんこを作るが、そうなると、びびりの自分としては砂糖の量をついつい加減してしまい、出来上がりはあんこというより、ちょっと甘く味付けされた小豆だ。それはそれで美味しいし、たっぷり食べても胃が重くなったりすることもないので個人的に嫌いではないのだけど、そうなると、本物のあんこ――すなわち、自分の関与する余地のない場所で他人様がたっぷり砂糖を加えてくれた小豆の炊いたん――への憧憬が募っていき、夢にまで出てきそうな勢いだ。

そんなことを思いながら、去年の暮、例の日系商店をぶらつき、店の主人夫婦と、コロナなかなか終わらへんねぇ、この夏はなんとしてでも日本へ行きたいねんけどなぁ、なんていう、この2年間海外在住日本人の間で幾度となく繰り返されてきたに違いない世間話をしていると、ふと、真空パックに入った「あんこ」が売られていることを発見。2種類のうち、ひとつは、保存料やあんこの製造には到底必要のなさそうな甘味料や添加物が入っているので却下。しかし、もうひとつの方の原料は、小豆、砂糖、水のみ。よっしゃ、これや、と決意し、即買い。

正月中は、少しいやしんぼして、いろいろ食べて飲んでしまったので、ぜんざいは少し間のおあずけ。先週、元の禁欲的(?)生活に戻ったところで、自分への「たまのご褒美」としてぜんざい作りに挑戦した。挑戦といっても、あんこはすでに出来上がっているので、これに水を足し温め好みの汁状にし、焼いた餅を加えるだけ。正月に雑煮を作ったときの餅がまだ残っていたので、ちょうどよかった。

食してみる。おおおお。紛れもないぜんざいです。砂糖の甘みが舌の味細胞を心地よく刺激し、脳にびびびっと伝わる。やわらかく炊いた小豆(袋には「つぶあん」とあったのだが、ほとんど「こしあん」でした)の舌触りは優しくまろやかで、溶けるように食道に滑り込んでいく。餅の焼き具合も完璧で、甘い小豆の汁をたっぷり吸い込んでおり、口の中に入れると幸福な安心感が充満する。

ぜんざいごときで何を大げさな、と思う向きもあるかもしれないが、本物のぜんざいは、普段作るエセぜんざいとは確実に違った。たまにはいいもんです。相方も喜んでいた。我が家の柴犬くん、じっと横で我々を観察していたが、犬的にはこれはデカダントな食べ物の範疇に入りあげられないので、鳥のささみでがまんしてもらった。

 

 

神楽坂の思い出

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神楽坂は、東京という巨大な街の中でもとても思い出深い場所のひとつだ。もうかれこれ15年くらい前、はじめて東京に長期滞在したときに利用したホテルが飯田橋駅近辺で、神楽坂にもすぐだった。それまで東京には旅行で数回来たことがあるだけで、新宿とか池袋などの主要な鉄道駅周辺の繁華街しか知らなかった。なので、神楽坂の落ち着いた雰囲気はとても新鮮で、坂沿いの小さな路地に迷い込んだりすると、ちょっとワクワクする気分になった。

あの時の滞在を期に、僕は、東京の街をもっとよく知ろうと努力するようになった。暇を見つけては、神楽坂・飯田橋周辺を歩き回った。ここから東に行けば後楽園、この坂を上って西に向かって歩けば早稲田、南は九段下というふうに、あのときの散策を通して僕は東京の街を初めて、新宿、池袋、上野といった単なる点の集合としてではなく、慣れ親しんだ神戸や大阪と同様、大小の無数の点が有機的につながった広大な面として認識するようになった。

神楽坂では、蕎麦のうまさを学んだ。多くの関西人がそうであるように、僕もそれまではもっぱら「うどん派」で、蕎麦とはあまり縁のない生活を送っていたのだが、蕎楽亭で食べた蕎麦がとても美味で、その後東京に来るたびにおいしい蕎麦の店を探した。蕎麦屋で一杯、というのを覚えたのもこの頃だった。

そうそう、ちょっとした縁で知り合い、その後付き合うことになる人(その付き合いは結局短命に終わったのだが)と初めて会って食事したのも、ここ神楽坂だった。坂の中ほどの小さな路地を少し行ったところにある炉端焼きの店だった。僕は、おいしい料理と酒にいつもより饒舌になり、東京という街がどんどん好きになっていくのを実感した。とても愉快な夜だった。

 

 

自家製納豆

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日本を遠く離れて20年ほど経つが、日本の食べ物を思わない日はない。幸い、歩いてすぐのところに日本の食材を専門とする店があるので、醤油切らしたとか、今日は味噌汁に油揚げがほしいなとか、いうときはとても便利だ。

 

ただ、問題は値段。豆腐とか米とかは、アメリカにも生産者がたくさんいるので、日本と比べてもそれほど割高感はないが、日本からの輸入品だと、日本での平均小売価格の2倍から3倍はする。納豆もそんな商品のひとつ。3パックで3ドル、つまり300円以上。かなり高い。

 

なら、自分で作った方が安上がりやん、ということで、たまに家で作る。まずは大豆を一晩水に浸した後、柔らかくなるまで数時間炊く。炊きあがった大豆を容器に移し、市販の納豆をほんの少し足し、よくかき混ぜ、ヨーグルトメーカーで保温。20〜24時間後には納豆ができあがっている。

 

時間はかかるが、必要なのは時間と根気のみ。大豆を炊くのはスロークッカーを使えば放置してても大丈夫だし、発酵もヨーグルトメーカーなら温度の心配をする必要がない。何度も納豆を作る過程で学んだのは、発酵すると大豆が少し硬くなるので、ちょっと柔らかすぎるかなと思う程度まで炊いておいたほうがいいということだ。もちろん、これは個人の好みによる。

 

自家製の納豆は、市販のものより匂いがマイルドで、口当たりがよく、一口一口豆を食べているんだと実感できる。我が家の柴犬くんも大好きだ。