歳月列車

米国での日常、そして、忘れえぬ日本の思い出

高野豆腐賛歌

f:id:kazearuki:20220401093717j:plain

先週は相方が出張で留守にしており、柴犬くんと二人きりで濃密な時間を過ごしていたのだが、仕事がたまっていて気が重かった。仕事の性格上、オフィスでの拘束時間は短いのだが、締切が重なると週末も何もあったものではなく、家にいてもやることが次々と出てきてなかなか休む暇もない。それでも、柴犬くんと近所の桜の開花度を調査に行ったり、春の換毛期が始まりつつある彼の毛にブラシをかけてやったりしていると、ああ、春だなぁ、と実感した。

息抜きに高野豆腐を炊いた。僕が好きなのは、だしと醤油と少しのみりんで炊いた、あまり甘くない高野豆腐だ。ちょっと豪華にしたいときは、卵とじにすることもある。以前は、だしから取っていたので手間がかかったが、数年前、日本の友人に紹介してもらった茅乃舎のだしを使いだしてから、飛躍的に調理時間が短縮され、高野豆腐を炊く頻度が上がった。高野豆腐は、酒の肴にもなるし、ご飯のお数にもなる。口の中に入れた高野豆腐からだしが染み出し、そのだしを味わいながら、プルンプルンの食感を堪能していると、箸が止まらない。何か好きなものを心いくまでどか食いすることを英語では、binge(ビンジ)というが、僕にとって高野豆腐は時にbingeしたくなる非常に愛おしい食べ物だ。

自分が好きなので、高野豆腐とは、誰もが普通に好きで普通に食しているごく一般的な食べ物だと思っていたのだが、このブログの記事を書くにあたって、軽くネットで検索してみるとけっこう侮蔑・虐待されているので驚いた。スポンジみたい、キシキシした食感が嫌い、主食にならない、などなど。あまりにけちょんけちょんに言われているので同情を禁じえなかったが、一方で、ああ、こういう見方もあるのだと、自分の感覚と感性で社会全体の嗜好を判断してしまうことの危うさを感じた。

それはさておき、今回はあいにく日本酒を切らしており、近所のスーパーまで出かけていくのも難儀なので、ちょうど冷蔵庫にあったサッポロと一緒にいただいた。やはり、この手の薄味の和食には日本のビールがよく合う。クラフトビールの興隆する昨今のアメリカでは、ビールと言えばラガーよりエールで、僕も普段は地元のクラフトビール産業界に微力ながらも貢献するエール消費者なのではあるが、和食に合わせるには味の主張が少し強すぎるように思う。その点、日系のラガーは、すっきり辛口で、高野豆腐とも冷奴とも温奴とも湯豆腐とも肉豆腐とも白和えとも相性がよい。その昔、中西部の田舎に暮らしていて、サッポロやアサヒといった日系ビールが簡単に手に入らなかったときは、イタリアのペローニとか、ベルギーのステラ・アルトワで代用していたが、これらは安価で手に入りやすく、かつ、苦さやキレの良さが日系ビールと通じるものがあるように思う。

春の夕暮れのどき、台所のテーブルから裏庭の水仙を眺めながら、サッポロを飲んで高野豆腐を食べる。横では、愛しき柴犬くんが、何とかご相伴にあずかろうと視線と前足で僕の気を引いている。目の前のパソコンからは古い浜省が流れている。資本制のもとに生きる一介の労働者にとってこの浮世は、苦しいことに溢れているが、こういう小さな幸せがあるからこそ、明日も労働に勤しもうと思える。

f:id:kazearuki:20220401093751j:plain

これは、先週。今は、もう散り始めています。

 

大阪夕陽丘

f:id:kazearuki:20220327074558j:plain

子供の時分から地図とか電車の路線図とかを見て、まだ見ぬ場所についてあれやこれやと空想するのが好きだった。そんな空想旅行みたいなことをしていると、特に興味を惹かれる名前を持った場所に出会うことがあった。神戸〜大阪のあたりでは、たとえば、阪急宝塚線の「雲雀丘花屋敷(ひばりがおかはなやしき)」なんて、その豪華絢爛な名前を見る度に、一体ここはどんな場所なんだと興味津々だった。実際に訪れたのは、もういい年をした大人になってからだったが、上品で閑静な住宅街でちょっと拍子抜けした。

西宮の香櫨園(こうろえん)も、素敵な名前だなといつも思っていた。こちらは阪神本線の駅で、神戸からもそんなに遠くないので、けっこう早い時期に「ご対面」した。あの界隈は、今でも帰国のたびに散策している。阪急の夙川駅から夙川沿いに香櫨園へと続く遊歩道は、阪神間の典型的な都市空間だと思う。

大阪の夕陽丘もそんな場所のひとつだった。大阪地下鉄の路線図でその名(谷町線の「四天王寺夕陽ケ丘」です)を見て何かびびっと来るものがあり、その後、織田作之助の「木の都」を読んでますます心を奪われた(笑)。

もう何年も前、渡米後の一時帰国の際、実際に行ってみた。寒い寒い12月の午後だった。上町台地と呼ばれるその界隈は、天王寺からも徒歩圏内なのだが、都会の喧騒からは切り離されていて、昔ながらの住宅街が静かに広がっていた。あいにくの曇り空で、町の名の由来である美しき夕陽は見えなかったが、オダサクの生きた時代の大阪を思いながら口縄坂や愛染坂を歩くと、そこに暮らした何百万、何千万という、自分の全く知らない人たちの歴史にまで想像力が巡っていき、何だか不思議な気分だった。ちょうどその前日、神戸ルミナリエで人波にもまれながらギンギラの電飾アートを鑑賞しており、やっぱり人ごみはしんどいなぁと感じていたときで、そんな僕にとって夕陽丘はとても心地よく、いくばくかの鎮静効果があったように思う。

f:id:kazearuki:20220327074638j:plain

その後は、例によって例のごとく日本橋まで出て「初かすみ」でお酒とおでんをいただき、北浜の宿へ帰ってぐっすり眠った。いい一日だった。

f:id:kazearuki:20220327074759j:plain

f:id:kazearuki:20220327074712j:plain

 

東京四谷

f:id:kazearuki:20220320090909j:plain

長く閉ざされていた日本の国境が、3月になりようやく開き始めた。アメリカからなら、ワクチンのブースター接種済で到着時の待機期間なしとのことで、少しは一時帰国がしやすくなった。2年以上帰ってないので、もうそろそろ帰らねば。そんなわけで、今日、初夏の日本行きの航空券の予約を済ませた。出発までにはまだ3ヶ月ほどあるのだが、これからは、こっちにいる間の仕事の調整でいろいろ忙しくなるが、こういう忙しさなら歓迎とは言わないまでも、許容できる。

月給取りの宿命で、一時帰国といっても、半分は仕事なので自由になる時間は限られているのだが、それでも、夕暮れを待ち、好きな店で軽く燗したお酒を飲みながら、夏ならお刺身、冬ならおでんを食べていると心地よい気持ちになり、浮世の憂さもほんの少しだが忘れられる。

パンデミックが始まるまでは、初夏と年末、年に二度は一時帰国していた。20年前に渡米した頃は、関空と北米諸都市の直行便がけっこうあって、一時帰国にも困らなかったのだが、その後、多くの路線が廃止になり、ここ十年ちょっとは、まずは東京へ飛び、そこで仕事を片付けて、それから関西へ向かうという旅程を繰り返していた。

東京ではもう何年も四谷に宿を取っているので、僕にとって四谷は東京滞在の拠点であり、したがって、この界隈にはとても強い思い入れがある。まず、四谷の町自体が、自分のような旅人に非常に親切にできている。コンビニも酒場もクリーニング屋もスーパーも駅周辺に集中していて、昼間歩きづめで夜はあまり出歩きたくない、というようなときでも困らない。

また、四谷周辺は散歩にも理想的な場所だ。通勤・通学の混雑が始まる前、早朝の日差しを浴びながら外濠公園を市ヶ谷方面へと歩いていると、良き一日となりそうな予感に包まれる。

四谷には、酒場も無数にある。中でも、角打ち鈴傳は特にお気に入りで、よく通っていた。お酒の種類が豊富なのに加えて、派手さはないものの家庭料理を思い出させる素朴な料理もよい。相方も大好きだし、一度、アメリカ人の友だちを連れて行ったときはいたく感動された。僕にとって、あのような小さな空間で全くの他人同士がひしめきあって楽しそうに呑んでいるという風景は、都市生活の醍醐味であり、アメリカにいて最も懐かしく思う日本の街の風景のひとつでもある。

しかし、航空券を予約したといっても、世の中を見渡してみると、コロナが完全終息したわけでもないし、戦争の激化もあるしで、あまり楽天的な気分にもなれない。昔のように、自由に平和に国境を超えて旅をできる時代が今一度やってくるのか不安でもある。

f:id:kazearuki:20220320091047j:plain

近所の桜も少しつづ開き始めている



 

春の歌―伊勢正三、吉田拓郎、浜田省吾

f:id:kazearuki:20220313074109j:plain

桜ももうすぐだ

昨日の朝、この街は深い霧に覆われていて、我が家の柴犬くんの散歩の時間になっても、いつもの公園は朝もやに煙っていた。散歩を続けるうちに日が昇り、春らしい日差しが照り始めた。この公園では、今、マグノリアが満開で、その次が洋梨の白い花、そして、あと数週間もすれば桜だ。花盛りの季節はもう始まっている。

こちら米国では、春は年度末でも学年末でもないので、生活・仕事の上で何か変化があるわけではないが、やはり、そこは多感な青年期までを日本社会で過ごした身であるゆえ、春=別れ=旅立ち=新生活、のような連想が自分の感受性の中に完全に刷り込まれている。そんなわけで、最近は春関連の歌が頭の中でずっとシャッフルされていて、オフィスにいても、休憩中などドアを閉めて、ちょっとあの歌聴いてみようか、という気になる。

まずは、風の「海岸通」。伊勢正三は、何気ない日常の風景や出来事を素材に、胸がぎゅっと締め付けられるような切ない詩を書く人だ。初めて聞くのになぜか懐かしく、遠い日を思い出させるような詩が多い。その中でもこの「海岸通」の詩は出色だと思う。恋い慕った人が、船で去っていくというストーリーだが、「あなたが船を選んだのは 私への思いやりだったのでしょうか 別れのテープは切れるものだとなぜ気づかなかったのでしょうか」という出だしから、もう鼻の奥がつんとして、瞼の奥がじ〜んとする。伊勢正三の歌で春、旅立ちというと、真っ先に思い浮かぶのは「なごり雪」かもしれないけど、僕はむしろ、「海岸通」で歌われる、列車ではなく、より遅緩で、それゆえ、より情緒にあふれた船を見送るという設定、そして、その船が夕陽の中に小さくなって消えていく光景により強く惹かれ、それらに託された無数の感情に想像力をかき立てられる。

吉田拓郎の「元気です」は、新生活の歌だ。「誰もこっちを向いてはくれません 1年目の春 立ちつくす私」と、新しい場所での新しい暮らしに誰もが感じる不安と孤独が軽快なメロディに乗せて語られる。2番で2年目の夏、3番で3度目の秋、4番で4年目の冬へ移行し、1曲を通して主人公の成長が伝えられる。「出会いや別れに慣れてはきたけれど 一人の重さが誰にも伝わらず」と寂しさを吐露しながらも、「それでも私は私であるために そうだ 元気ですよと答えたい」とちょっと強がって前向きに生きていこうとする主人公の姿が、たまらなく愛おしく、限りない共感に浸ってしまう。この歌に限らず吉田拓郎の詩は、疲れたときに食べるぜんざいのように、心を温かく包み込みほっこりした気分にしてくれる。

浜田省吾の「風を感じて」は、特に春の歌ではないが、躍動感に満ち、何かの始まりを予感させ、元気をくれるという点では、この季節にぴったりだ。少し話がそれるが、僕はその昔、浜省が好きで狂おしい(笑)くらいに好きだった(今でももちろん好きですけど)。自己分析するに、僕は、子供の時分から決して強くて勇ましい、世間一般にいう男らしい男というわけではなかったので、その反動で何かしらアニキ的なものに強く憧れ、それが浜省にハマった理由のひとつだったと思う。浜省のロックは、決して家父長的でもマッチョでもなく、僕のような弱い男でも優しく受け入れてくれるように感じた。

で、「風を感じて」に話を戻すと、浮世にはいろんなしがらみがあるが、もっと楽に生きようよという歌。「自由に生きてく方法なんて100通りだってあるさ」という言葉にどれほど慰められたか。このブログを書くにあたって、youtubeにアップロードされているこの歌のビデオを検索したのだが、同じようなコメントがけっこう並んでおり、自分もこの歌に勇気をもらった無数の人々の一人なんだと妙な連帯を感じた。しかし、僕は、不惑をとうに過ぎたこの年になっても、「100通り」の「自由に生きてく方法」のうち、せいぜい5つ程度しか知らず、今だ、迷いあり、不安あり、後悔ありの毎日だ。なので、やはり今でもアニキ浜省の優しい鼓舞が必要で、毎年春になると、この歌を聴いて元気をもらっている。

上高地の流れ星

f:id:kazearuki:20220311100440j:plain

出典:pixabay (https://pixabay.com/ja/photos/上高地-河童橋-梓川-日本-356968/)

僕の住むアメリカ東部の街は、決して大都会と呼べるほどの規模ではないが、それでも、日が暮れてから帰宅するときなど、高速の向こうに見えるダウンタウンのビル群は煌々と輝いていて、ここがいっぱしの近代都市であることを実感する。

ここ数週間ほど、仕事の関係で自分の街からかなり離れた田舎の道を日が暮れてから運転することが多かったのだが、自分の住む街との歴然たる違いは、何と言ってもその暗さのレベルだ。アメリカの田舎というのは、隣家へ行くにも車が必要なほど人口密度が低く、商業施設も少なく、街頭もほとんどなく、したがって、漆黒の闇に覆いつくされていて、こんなところで車が故障したら、山賊や妖怪に襲われてしまうんじゃないだろうか、と本気で心配してしまう。ただ、その分、星の明るさと美しさは別格で、我が家のバルコニーから見るくすんだ青白い夜空と同じとは到底信じがたい。

数日前、例によって例のごとく浜省や拓郎やなんかを聴きながら、フロントガラスの向こうに広がる田舎の夜空を見ていると、ずっと昔、もう30年以上も前の夏、上高地で見た流れ星たちのイメージが突然蘇ってきた。

上高地へ行ったのは、当時ちょっとだけ真面目にやっていた部活動との関連でだった。部活の顧問の先生方に引率され、僕たちは槍ヶ岳へ登り、そこから上高地へ下山した。槍ヶ岳登頂まではけっこう過酷だったが(それは、体力的にという意味で、先生方も部員もみんないい人たちでした)、そこからはひたすら下るだけで、上高地に着くと、大仕事をやり終えたという高揚感と、もうあんなしんどい思いはしなてくてもいいのだという解放感で、自分も含めてみんな饒舌で妙に明るかった。

上高地には確か2泊したのだが、もう早起きして山に登る必要もなかったので、みんな夜更しして、懐中電灯を片手に肝試しに出かけたり、ちょっとマセた部員たちは、公衆電話を見つけて地元の彼氏・彼女にテレホンカードがなくなるまで長距離電話をかけていた。

僕はといえば、上高地では流れ星が見えるらしいで、という友人の言葉に誘われ、数人で流れ星探しに興じた。僕が育ったのは神戸の郊外の小さなニュータウンだったが、それでも流れ星が見えるほど綺麗な夜空ではなく、「流れ星」という言葉は少し現実離れして聞こえ、好奇心をそそられた。といっても、僕たちにできることは、草の上に寝転びひたすら待つのみ。8月の上高地は、昼間こそ観光客や登山客で賑わっていたものの、夜のとばりが下りると、驚くほどの暗闇と静寂に支配され、それらは、僕がそれまで全く経験したことのなかった度合いの暗闇と静寂だった。そんな中で見る満天の星々は神秘的で、まるで異世界に放り込まれたような錯覚に陥った。

僕たちは、各々好きな方向を向いて、流れ星を待っていたのだが、しばらくすると、あ、見えたで、ほんまや、という声が聞こえ始めた。僕は、当時とても慕っていたひとつ上の先輩の隣に寝転んでいたのだが、我々のところにはまだ流れ星がやって来ない。それでも、流れ星を見ながら願いごとをすると、願いがかなうらしいで、とかいう話をしながら、根気よく待っているとついに流れ星第一弾が到来。それは、線香花火が弾けたようなとてもはかなげなものだったが、それは確かに流れて、そして消えた。それからは、運が回ってきたようで、数時間の間に複数の流れ星を見ることができ、僕は上機嫌だった。そんなことで興奮していたのか、あるいは、翌日には上高地を去り旅が終わることが名残惜しかったのか、眠気に負けた他の友たちが一人二人とテントへ帰っていく中、その先輩と二人で明け方近くまで外で話し込んでいた。ある夏の良き思い出だ。

流れ星といえば、吉田拓郎のこの歌、好きだなぁ。

イカナゴのくぎ煮

f:id:kazearuki:20220306101431j:plain

僕の住むこの街では、ここ1週間くらいで気温が急上昇、にわかに春らしい天気になってきた。

というわけで、イカナゴの季節だ。神戸・明石近辺では、イカナゴの稚魚を醤油とザラメで甘辛く炊いた「くぎ煮」は春の風物詩で、物心ついた時分から、毎春、祖母も母も大量に作っていた。近所の家々も同様で、3月から4月にかけては、町を歩くと魚のうまみと甘辛さが絶妙に融合したあの独特の匂いがただよってくることが多く、ああ、この家は生姜をよく利かせてるなとか、ふむ、この家では山椒を入れるのかとか、家ごとの違いがおもしろかった。ちなみに、僕の母は、基本は生姜入りだったが、生姜嫌いの年の離れた妹のため、生姜抜きも作っていた。

自分にとっては、沈丁花の匂いが冬の終わりの象徴なら、くぎ煮の匂いは春の訪れの象徴だった。あの匂いを思うと、卒業式・終業式の時節の温かいそよ風やちょっと霞んだ空、春休み中の昼間のがらんとした通学列車、日だまりの中で気持ちよさそうに眠る我が家の雑種犬など、春関連の諸々が次々と頭の中を駆け巡っていく。

僕が渡米してからは、母は、春に炊いたくぎ煮を冷凍保存しておいてくれ、初夏に一時帰国するときに食べさせてくれた。あれを肴に地元のお酒で一杯やって、その後、それをお数にご飯を食べると、故郷に帰ってきたことを実感した。そんなわけで、ここ20年ほどは、くぎ煮は僕にとってはむしろ初夏の風物詩だ。

ここ数年はずっとイカナゴが不漁らしい。今年は、大阪湾では3月1日にイカナゴ漁が解禁になったが、やはり漁獲量が低く週明けの7日まで休漁になっているとか。母親とラインで話していると、近所の生協では、昨日1キロ3540円だったそうで、もうこうなると一般人が気軽に食べられる魚ではない。水際対策緩和が進み、今夏はついに待機なしで一時帰国できると喜んでいるのだが、くぎ煮にありつくことはできないかもしれない。

f:id:kazearuki:20220306101627j:plain

 

続サンディエゴの思い出

f:id:kazearuki:20220305233317j:plain

前回、渡米して最初に暮らした街サンディエゴについて書いたが、今日はその続き。彼の地には合計6 年ほど住んだのだが、今振り返ってみると、その6年間、あたかも同じ時間が何度も何度も繰り返し循環していたかのように、そこで経験した様々な出来事がごちゃまぜで蘇ってきて、それらを時系列に並べて整理することが難しい。これは、サンディエゴを含む南カリフォルニアの沿岸部が、極めて季節の変化の少ない土地であるということに、大いに関係していると思う。そこでは、大阪や東京の4月、5月ごろの爽やかな天気が来る日も来る日も、とこしえに続き、2月に木々が青々と茂っているかと思えば、8 月でも日陰に入るとひんやりしている。

多くの人にとって、記憶の中の出来事は、例えば、あの店で鍋焼きうどんを食べた日は確か小雪が降っていたなかとか、車窓から見た六甲山の新緑がきれいだったなとか、何らかの季節感と結びついていることが多いと思うが、サンディエゴにまつわる記憶の中にいる、今よりずっと若く健康的な僕は、いつもポロシャツの上に薄手の上着を着ていて代りばえがしない。もちろん、そこでの6年という年月で、僕の人生は大きく変化し、つらいこと、くやしいことも随分あったが、サンディエゴの常春の陽気が、そういった負の感情を中和し、まるで、とろ〜んとした甘美な夢の中に6年間いたような不思議な幻想に僕をおとしいれる。

このような幻想的な記憶の重要な部分を占めているのが、当時我々の住んでいたヒルクレスト(Hillcrest)という界隈だ。ここは、サンディエゴの中心部から数キロ北へ行ったところにある、丘の上の町だ。我々が渡米を準備していた頃は、ネット及び紙の媒体で得られるサンディエゴ情報は驚くほど限られていて、ヒルクレストについて知ったのは、かつて大阪で仕事をしていて、サンディエゴに引っ越した友人がそこに住んでいたという偶然を通じてだった。

ヒルクレストは、全米でも有数のゲイ・タウンなのだが、ゲイやレズビアンだけではなく、芸術家やらヒッピーやらサーファーやら僕のような外国人やら年金生活者やら何を生業としているのか全く不明の人々やら、とにかく多様な社会的バックグラウンドを持った人々が暮らす、いい意味でカリフォルニア的混沌さを体現する町だった。近所の人や懇意になった人たちと話しても、生粋のカリフォルニアっ子は実に稀で、多くが、どこか他の州、あるいは海外から越してきた人々で、そういった意味では、僕のようなよそ者にとても親切で寛容な場所だった。

こういった人々が思い思いの格好をして、カフェで何時間もうだうだしていたり、バーで昼間からビールを飲んでいたり、公園で昼寝していたりして、そこでは時間の流れがとてもゆるやかに感じられた。僕は、渡米する直前までは、ネクタイを締めて、朝7時半頃に摂津本山のアパートを出て、JRか阪急のそれなりに混んだ電車で(といっても、御堂筋線や東京の田園都市線などとは決して比較できるほどではなかったですが)大阪へ通勤するという、至って一般的な勤め人生活をしていたので、サンディエゴのゆるさにはかなり驚かさ、しかし、すぐにそういった生活に溶け込み、カリフォルニアに流れてきた多くの人々の一人になっていった。

もちろん、僕は、神戸も大阪も東京も大好きで今でも常に思い慕っているが(それだからこそ、こんなブログを書いているわけで)、サンディエゴでの暮らしは、自分の知っている世界を相対化するのに大いに役立ち、それを通じて、僕は、自分とは全く異なる価値観や生き方の人々へ想像力を巡らすことを学んだように思う。

アメリカで最初に暮らしたのがカリフォルニアだったことは、僕にとってとても幸せなことだった。その後、僕は、仕事の関係で、カリフォルニアから遠く離れた小さな田舎町へ越さざるを得ず、そこでは、大いなる敗北と挫折を味わい、健康も害してしまったのだが、そこでアメリカを憎み、やさぐれて日本へ帰国するという選択をせずにすんだのは、ひとえにサンディエゴの思い出があったからだと思う。サンディエゴの優しい日差しと陽気な人々を思うと、困難のさなかにあっても、これが永遠に続くわけないよな、とちょっと楽天的になることができた。

いつかはまたカリフォルニアに住みたいと思うこともあるのだが、その後の異常な物価上昇を思うと(現在、サンディエゴの住宅販売価格の中央値は1億円を超えています)、それは、決してたどり着くことのない蜃気楼のような夢として終わることはほぼ確実だ。

そうそう、ママス&パパスの「夢のカリフォルニア」は、寒く暗い冬の日、はるか遠いカリフォルニア(サンディエゴではなくロサンゼルスですけど)を懐かしむ、という歌詞だが、その気持ちよくわかる。