歳月列車

米国での日常、そして、忘れえぬ日本の思い出

帰らない時間、あの頃の僕

時間の不可逆性、つまり、過ぎた時間は二度と帰ってこない、という当然のことを5年ほど前、40代なかばに差しかかった頃から真剣に考えるようになった。それまでは、仕事においても私生活においても、失敗しても、寄り道しても、立ち止まっても、ま、何とかなるわ、と前向きに、ある意味能天気に、未来を志向しながら生きてきたのだが、ちょうどその頃から、過ぎ去ったものや人、過去に訪れた様々な場所へ思いを馳せることが飛躍的に増えた。自分の体力的・社会的・経済的限界を意識するようになったのもその頃なので、未来の可能性よりは過去の思い出の方が魅力的になってきたのだと思う。この傾向は、パンデミックで日本へ行けなかった2年5ヶ月という時間を経て、さらに強まったような気がする。

去年は6月と12月の2回、日本へ一時帰国し、懐かしい場所を再訪し、懐かしい人々と再会してきたわけだが、行く先々で、残りの人生であと何度この場所を訪れ、この人と会って話すことができるのだろう、というようなことを幾度も考えた。常宿のある大阪の北浜や東京の四谷、繁華街の三宮や難波や新宿ならいざ知らず、無理にでも用を作らねば自分が絶対に行かないような場所が日本中にたくさんあるわけで、そう思うと、訪ねる一つひとつの場所がたまらなく愛おしく、その場所の空気の匂いとか、陽射しの具合とか、雲の形とかそんなどうでもいいことまでしかと記憶にとどめておきたいと思った。

写真は、小野市にある神戸電鉄粟生線の終点、粟生(あお)駅で、おそらくもう二度と訪れることのないであろう場所のひとつだ。5年ほど前、突然予定が空いた師走の午後、何の計画も立てずに、ふらっと新開地から電車に乗った。赤字続きの粟生線は、当時からすでに近い将来に廃線か、と言われており(と言いながら、今も存続してますけど)、そんなことになる前に、粟生線の終着駅を見ておきたいと思ったのだ。

粟生駅は、新開地から1時間ほど。半田園、半住宅地のような場所に設置された駅で、神戸電鉄だけではなく、JR加古川線と北条鉄道も利用可能な、北播磨の一大ジャンクションだ。と、こんな書き方をすると、さぞ壮大な駅のように聞こえるが、それぞれの電車の頻度は1時間に1本程度。このあたりはほぼ完全な車社会であるので、主な利用客は近隣の学生たちのようだった。僕が訪れた時はちょうど学生の下校時間と重なったようで、静かな田舎の駅もけっこう賑わっていた。

彼らを見ていると、自分の高校時代を思い出さずにはいられなかった。悩みも不安も多く、決してよき思い出ばかりではないが、当時の僕は、世間の多くの高校生がおそらくそうであるように、何の根拠もなく人生は無限だと信じ、高校を卒業したら、大学へ行ったら、大人になったら、とあれやこれや空想していた。空想には何の責任も付随せず、自由気ままであるので、そういった意味ではとても楽しかった。

海外で暮らすというのもその空想の一部で、今の僕はその空想を見事に実現させているわけだが、毎日毎日日本を恋しがり、変えられない現実と戻らない時間に歯がゆさを感じている。果たしてこれが最良の選択であったのか(そもそも最良の選択とは、どんな基準をもっていうのか)、今の自分が真に幸せなのか、全く分からなくなっている。50に手が届こうかという年になっても迷い惑っている僕をあの頃の僕が見たら、一体何と思うだろうか。

 

横浜小旅行

前回の記事で、いかに望郷の念が強いかということを書いたが、日本のことについて書いていると少しではあるが精神の平和が保てることが分かったので、続けて投稿。今日は横浜のお話。

東京から横浜までは、JRの新宿から横浜までが30分ほど、東急の渋谷から元町・中華街までが40分弱なので、けっこう気軽に行ける距離なのだが、ほとんど訪れたことがなかった。特に理由があるわけではなく、東京にいるときはたいてい仕事半分でくたびれていて、なかなか足をのばす機会がなかっただけだ。といっても、神戸にいるときは、しんどくても、阪神間、大阪、北摂、ときには京都まで精力的に出かけていくので、おそらく、勝手のよく知らない横浜へ行くことに対する尻込みみたいなのもあったのだと思う。

始めて横浜へ行ったのは、もう16、7年前。友人カップルが、東急のあざみ野に住んでいて、泊まりにおいでよと誘ってくれたので出かけていった。今なら東急の田園都市線がどれだけ混むのかしっかり知識があるので、時間をちゃんと見計らって行動するだろうけど、当時は、東京の電車事情にはとんと疎く、夕方のラッシュ時に渋谷から電車に乗ってしまい、そのあまりの混み具合に恐怖を覚えた(関西であそこまで混むのは、御堂筋線くらいですよね)。

が、あざみ野自体は、阪急の夙川とか武庫之荘あたりを思い出させるとてもきれいな町で、すっかり気に入った。しかし、その友人カップルは、その後、横浜を離れて遠い町へ越していったので、僕のあざみ野との縁はそれっきりになってしまった。

それから、ちょうど1年後くらい、東京でちょっと懇意になった別の友人が横浜を案内してくれた。彼は、生まれも育ちも神奈川で、横浜に対する愛情に満ち溢れた人だった。横浜はあざみ野しか行ったことがないねん、と僕が言うと、じゃあ今度の週末遊びにおいでよ、ということになった。しかし、正直言って、この時の横浜行きはほとんど記憶に残っていない。山下公園や元町などお決まりのコースを巡って、中華街で晩のご飯を食べたのは覚えているのだけど、細部については記憶から完全に脱落している。

僕は記憶力はいい方で、普通は、訪れた場所の視覚的な映像だけではなく、匂いとか空気の肌触りとか、そういうどうでもいいようなことまで、しっかり覚えているのだけど、この横浜訪問は数少ない例外のひとつだ。というのは、当時の僕は、とある問題で精神的にまいってしまっていて、週末に遠出でもすれば気が紛れるかなと思って出かけていったのだが、結局横浜でも、その問題がひと時も頭から離れず、早く東京へ帰ることばかり考えていた。忙しいスケジュールを調整して横浜案内を買ってでてくれた親切な友人には、悪いことをしてしまったと今でも後悔している。

去年の6月に一時帰国した際、再び横浜を訪れた。ちょっとした理由でカトリック山手教会がどうしても見たくて、仕事が早く終わったある日の午後、渋谷から東横線に乗っていった。終点の元町・中華街で下車して、山下公園を軽く散策した後、タクシーを捕まえて山手教会へ。前回と違い、今回は精神的にも落ち着いていたし、横浜へ自分の意志で来るべくして来たので、横浜的雰囲気を、ほんの一部だが、堪能することができた。山下公園は神戸のメリケンパークを、山手はこれまた神戸の北野界隈を彷彿とさせ、全く見知らぬ場所なのに何だか懐かしい思いがこみ上げてきた。

恐ろしく暑い日だったが、横浜は、東京の都心と比べるとほんの少しだが涼しくて海風が気持ちよかった。これも、大阪の街中から神戸へ行くと、その涼しさに救われてちょっとほっとする感覚にどこかしら似ていて、なんだかおかしかった。

そうそう、ふきのとうの「小春日和」という歌は、休日に東京の喧騒を逃れて横浜へ小旅行に出かけるという歌詞。こういう休日の過ごし方、いいなぁ。

望郷、あるいは乱れる心

御堂筋は今年もきれいでした

明けましておめでとうございます。

前回の記事を書いてから実に4ヶ月以上の時が流れてしまった。夏の終りあたりから仕事がまた忙しくなり、11月の終わりの感謝祭までほぼ休みなしだった(といっても、オフィスに毎日行っていたわけではありませんが)。師走になり少し落ち着いたと思ったら、次は、日本行き。2週間ほど滞在して、年末に帰ってきた。

実は、今回の日本行きはかなり直前になって決めたものだった。航空券の高騰は収まる気配がないし、日本には夏に行ったので年に二度行かなくてもという気持ちもあったりで、日本行きは夏までおあずけと一度は決意した。ただ、仕事柄、12月は時間に融通がきくので、なら、比較的航空券の安いヨーロッパへ行こうと思いたち、すでに支払いまで済ませていた。

が、日本への望郷の念消し去り難く、この機会を逃したら自分は金輪際二度と日本へ行くことができないのではないか、という根拠のない不合理な思考に心が支配されてしまい、いてもたってもいられなくなり、結局、ヨーロッパ行きを中止、日本行きの高い航空券を買って、あわてて北浜や四谷の宿を予約するようなことになってしまった。やはり、僕は、夏と冬、少なくとも年に二度日本へ行かねば落ち着かない体質に出来上がっているようです・・・。

いつもなら、日本で2週間なり3週間なりの滞在を満喫して米国へ帰ってくれば、すぐにこちらでの生活のリズムを取り戻し、日本を懐かしむことはあっても、それはあくまで心地よい、甘い懐かしさだったのだが、今回は、事情が違うようだ。米国へ帰国してからも日本への思いが日増しに増幅され、日本にいることのできない自分自身を強烈にもどかしく感じる。日本で実現し得たかもしれない生活に関する空想から抜け出せない。人生の要所要所で自分の行った数々の選択が正しかったのか確信が持てず、何かとんでもない間違いを犯してしまったのではないか、という後悔の念のようなものにさいなまれる。時差ボケもなかなか治らず、夜中に突然目が覚めて、あれやこれや考えてしまう。

米国での生活に特に不満があるわけではない。よき相方にもよき柴犬にも恵まれている。仕事は忙しいとはいえ、自由度も高く好きなことをやらせてもらっている。経済面で不自由することもない。米国という国もそこの人々も本当に親切で友好的で、とても感謝している。ただ、今でも自分がこの国では異邦人であり、根無し草であり、旅人であるという感覚から抜け出せず、神戸や大阪、東京の街とそこに暮らす大切な人々が無性に懐かしく、駆け出していきたい衝動に駆られる。ここで大病や大怪我をして、あるいは単に年老いて日本へ行けなくなる日が来ることを思い、不安でたまらなくなる(そして、そういう日は確実にやってくる)。

ふきのとうの歌に「12月の雨」というのがあって、大好きな歌なのだが、こんな歌詞が出てくる。

     僕はあいも変わらず昔と同じ旅から旅への毎日です
     こうして一年があっという間に
     足早に過ぎていくことにつらく思う時がある

歌詞のコンテクストは自分のとは異なるが、この部分は今の僕の気持ちは妙に言い当てている。

今は比較的仕事が落ち着いており、時間に余裕があるので、いらぬ空想や妄想に執着しているのであって、仕事がまた忙しくなれば、もとの精神状態に戻ることができるのか。あるいは、これはもっと根源的な問題の兆候にすぎず、真面目に向き合う必要があるのか。それは、自分でも分からない。ただ、この望郷の念というやつは非常に厄介で、僕の心をかくも激しく乱しており、自分でもちょっと驚いている。

久々、そして新年初の投稿だというのに、とても暗い内容でした。すみません。

師走某日、北浜、快晴

 

過ぎゆく夏、パシフィック・コースト・ハイウェイ

晩夏だ。神戸も大阪もまだまだ暑いようだが、僕の住むこの米国東部の街は、暑さが少しではあるが、やわらぎつつある。朝晩は20度を切ることもあって、これだけ涼しいと柴犬くんも元気で、機嫌よく散歩に行ってくれるので、こちらもうれしくなる。

6月に日本へ行ったとはいえ、7月と8月は普通に労働していて、しかもかなり忙しく、よって何か特別なことをしたわけではないので、夏が終わったからといって何かが劇的に変わることはない。だけど、夏が去っていくのはやはりどこか寂しい。いつもの日常が戻ってくることを悲しみ、夏の休暇の始めへ時計を巻き戻したいと願った少年の頃の記憶が、今でもしっかり残っているせいだろうか。

15年ほど前、まだサンディエゴに住んでいた時分、夏の終りのちょうどこの季節、相方と二人で北カリフォルニアはモントレーまでの往復ドライブをした。ロサンゼルスは二人とも大好きで、それまでにも何度も訪れていたが、カリフォルニアの北部はサンフランシスコ以外は行ったことがなかったので、ちょっと遅い夏の休暇を利用して、カリフォルニアをもっと探索してみようということになったのだ。

カリフォルニアは、全米50州の中では、アラスカ、テキサスに次ぐ第3位の面積を擁する巨大州だ。最南端のサンディエゴから北部のモントレーまでは片道700キロ以上、大阪からなら東京を通り過ぎて福島のいわきあたりまで行けてしまう距離だ。この行程を、途中いろんな場所で道草を食いながら、4日か5日かけて往復した。これは、車の運転が嫌いという、アメリカで生存していくに全くふさわしくない性質を有している僕がこれまでに経験した唯一の「ロードトリップ」だ。

結果として、この「ロードトリップ」はとても思い出深いものとなった。 南北カリフォルニアをつなぐ高速道路、いわゆる「パシフィック・コースト・ハイウェイ」は海岸線に沿って敷設されていて、そこでは、カリフォルニアの大自然がたっぷり堪能できる。朝方の濃い霧に包まれた砂浜、真っ青な空に下にそびえる断崖、太平洋の彼方に沈みゆくオレンジの太陽、もう、どれをとっても「絵になる」風景ばかりで、僕も相方も、美しきカリフォルニアにうっとり魅了されてしまった。

特にセントラルコーストの「ビッグサー」と呼ばれる地域は、海岸のすぐそばまで山が接近している景勝地で、今だ手つかずの自然が残っていた。そこで、色とりどりの花々の中をハチドリが飛び回るさまを見たときは、もし楽園というものをこの世に作るなら、これこそ格好の場所ではないだろうかと思った。

旅の最終日、サンディエゴに帰り着くちょっと手前、カールスバッドという海沿いの小さな町で車を止めた。家に帰っても冷蔵庫は空っぽなので、ここで夕食を済ませようと、僕たちのお気に入りのフィッシュタコスの店でテイクアウトして、日没どきの浜辺へと繰り出した。乾いた涼しい潮風に吹かれながら食べるフィッシュタコスは、夕日を浴びてオレンジに染まっていて、まるで初めて食べるごちそうのようだった。

僕は、仕事の関係でその数週間後から、東京に長期滞在することになっていた。カリフォルニアの海ともしばしのお別れやなと相方と話しながら、薄暮の迫る浜辺をそぞろ歩く人々を眺めていると、それまでの数年間のサンディエゴでの思いと思い出がどっと心に溢れてきてちょっと胸が熱くなった。カリフォルニアを去るのは名残惜しかったが、東京での生活は楽しみであったし、何より、夏の終わりのひと時をかくも美しい場所で過ごすことができたのはとても幸運であった。

あの夏のロードトリップは、今でもこの季節になるとしばしば思い出し、カリフォルニアのさらっとした空気の肌触りや潮風の匂いを懐かしんでいる。

 

神戸、1993年の寒い夏

最近は地球温暖化の影響もあって、毎年夏が異常に暑い。僕の住む米国東部の街でも、35度くらいまで上がる日がけっこうあって、そういう日は心も体もげんなりしてしまうし、我が家の柴犬くんも散歩に行ってくれない。しかし、ここに長く住んでいる人に聞くと、昔はもっと涼しかったらしい。それは、日本も同じで、今、真夏の神戸なら35度でもそれほど驚かないが、僕が子供の時分は、30度くらいでも暑い暑いと文句を言っていた。僕の育った町は、当時はまだ開発途上で近くに自然がたくさん残っていのたで、熱帯夜というのがほとんどなく、夜はひんやり涼しかった。と、こんな話を、6月に一時帰国した際、母としていたのだが、そのときに、1993年の夏の話になった。

あの夏は、今ではちょっと想像できなくらいの冷夏だった。雨と曇りの日が多く、気温が上がらず、一体いつ梅雨が明けて夏が来るのだろうと思っていたら、9月になって秋になっていた、という何だか張り合いのない夏だった。日照時間が短かったせいで米不足になり、日本社会がパニックになったのもこの年だった。

この夏のことは、とてもよく覚えている。当時、僕は大学生で、ちょうどその年の春、バイト代や小遣いを貯めて日産の中古車を買っていた。夏になったら、この車で海へ行こうと楽しみにしていたのだが、友人やバイトの仲間なちと海行きを計画しても、どんより曇り空だったり、雨が降ったりで計画変更を余儀なくされることが多く、冷夏がうらめしかった。

それでも、暇は見つけては、須磨や舞子、明石の江井ヶ島(これは、島ではありません)、ちょっと遠出して、姫路の的形(「まとがた」と読みます)まで出かけていったりしていたのだが、あの夏はどこの浜辺へ行っても人が少なく、また海の家が出ていないことも多く、あまり夏を満喫できる雰囲気ではなかった。一度、地元の友人二人と連れ立って舞子へ行ったとき、ついた途端に雨が降り出し、嵐の様相となり、へたれの僕はもうそこで海へ入ることは断念した。が、友人のひとりは、せっかく来たのだからと、僕たちに傘をささせて水着に着替え、嵐の中、果敢にも水の中へ入っていったが、3分ほどでブルブル震えながら出てきて、3人で大笑いした。

と、まぁ、こんなふうに1993年の夏は、決して理想的な夏ではなかったのだけど、僕はあの夏――日産のポンコツ車、くすんだ灰色の空、雨のしとしと降る浜辺などなど――を今でも時々懐かしく思い出すときがある。というのも、今から振り返ると、あれが自分の人生において、たいした心配事もなく安穏と過ごすことのできた最後の夏だったからだ。その後は、大学での学業にもう少し真面目に取り組むようになったり、私生活でも多くの変化があったりと、夏休みといってもあまり遊んでばかりもいられなくなった。それにともなって、交友関係も変わっていった。また、大学の卒業が近づいてきたこともあり、将来の身の処し方を真剣に考えることも多くなった。

その頃から、すべきこと、考えるべきことが次から次へと立ち現れてきて、常に時間に追われているような、常に何か心に引っかかっているることがあるような感覚にとらわれ、その感覚は今でもずっと続いているような気がする。もちろん、愉快なこと、面白いことは、あの夏以降もたくさん体験してきたけど、何をしていても、より現実的でより冷静なもうひとりの自分ががちょっと離れた所から僕をじっと見ているようで、何かを100パーセント心から楽しむということは、ほとんどなくなってしまった。早い話、あの夏に思春期が終わり、苦しきこと多かりし大人の季節がやってきて、それまで苦労も努力もなく維持してきた無邪気な感性みたいなものを永遠に失った、ということだと思う。

それにしても、大学生になるまで、経済的な憂いもなく、のほほんと思春期を過ごすことができたのは、ひとえに両親のおかげであり、その後はいろいろ理解し合えない出来事があり、常に良好な関係だっとは言えないものの、二人にはとても感謝している。

ワシントンで帰宅困難者となる

私用でワシントンDCに行った。たいていは車で行くのだが、今回は一人だし、先の日本滞在中に列車旅の良さを再確認したこともあって、アムトラック(Amtrak、アメリカの国鉄です)で行くことにした。

気軽な日帰り旅のつもりで、朝、家を出、ワシントンで用事を済ませて、昔の同僚と早めの夕食を取り、さて帰ろうと、ユニオン駅へ行ってみると、ほとんどの列車が遅延か運休になっている。ちょっと前に夕立があったのだが、そのときの雷が原因で停電が起こり、ワシントンとその近辺にいる列車がすべて立ち往生しているらしい。自分の乗るべき列車も、「Delay(遅延)」となっているが、どのくらいの遅延かは全くわからない。窓口で聞いても、知らん、新しい情報が入れば電光掲示板に出るから、それを待っていろと、おざなりの返答だ。こういういい加減さは、非常にアメリカ的だ。

この時点で、我が家へ帰ることはきっぱりあきらめた。遅延、遅延、と待たされた挙げ句、結局は運休になることが予想されたからだ。こんなとき、日本なら、鉄道会社が代替輸送の手段を確保したり、乗客の方も鉄道会社から何らかの助けがあるのを期待するのだろうけど、アメリカの場合、公共の交通機関に対する信頼がそもそも著しく低いので、こんなことになっても、皆けろっとしていて、全然悲劇的ではなく、あ、そう、という感じで、すぐにあきらめて駅を後にしていく。

そんなわけで、自分も帰宅困難者になってしまった。アメリカに来て初めての体験だ。車で来なかったことが悔やまれた。しかし、家には相方がいるので、柴犬くんの心配をする必要はない。心を切り替えて、ワシントンで一泊することにした。まず、スマホでホテルを予約した。ユニオン駅の構内には、ユニクロがあるので、ここで下着とTシャツを購入(これは本当に助かりました)、地下のドラッグストアで、コンタクトの洗浄液や歯ブラシやなんかも買って、地下鉄でホテルへ移動した。現在のアメリカの都市部の物価上昇は異常で、ホテル一泊、税込で300ドル近くもして、予期しない出費となった。

ま、そこは悔やんでも金が戻ってくるわけでもないし、せっかくの金曜でもあるので、ホテルにチェックインしてから、またちょっとお出かけして、近所のバーで軽く飲んでから、部屋に戻り、持ってきていた本を読んだり、「ふきのとう」を聞いたり、北浜と四谷の定宿を思い出したりしながら寝落ちした。翌朝は、相方おすすめのカフェで朝ごはん食べて、涼しいうちにホテルの近所を散歩して、部屋に戻って二度寝して、昼すぎの電車に乗って帰宅した。帰りの電車も、また「遅延」だったのだが、20分程度の遅延であったし、アムトラックに遅延はつきものなので、それは想定済みであった。

こういう体験は、できればもう二度とごめんだが、思いもかけず、丸一日以上仕事から強制的に切り離され、ラップトップも開けず、Eメールに返信もせず、ダラダラすることができたのは、怪我の功名というべきかもしれない。ま、こういうポジティブな考え方をしないと、予期せぬことの多い異国暮らし、やっていけませんからね・・・。

 

亡き父のこと、神戸湊川のこと

2年5ヶ月ぶりの一時帰国から米国に戻ってきて、もうすぐひと月になるのだが、いろいろ思うところがあり、それらの感情とどう向き合えばよいのか分かりかねる時がある。夕方、少なくとも5時までは普通に仕事をしていて、それは、精神の集中というか、自分の社会的な存在意義の再確認というか、そういう意味においてはとても重要なのだが、夜、夕飯を済ませ、柴犬くんの散歩も済ませ、ぼーっとお酒を飲みながら好きな音楽を聞いている時など、それまで抑えていた様々な感情がどっと押し寄せてきて、ちょっと戸惑ってしまう。

そんな時に絶えず思っているのが、父のことだ。このブログでも何度か書いたが、父はもうこの世にはいない。2年ほど前にあっけなく亡くなってしまったのだが、ちょうどコロナで国境がほぼ封鎖されている時であったので、帰国はあきらめ、先月の日本行きが、父の死以来初めての一時帰国だった。

これも以前書いたが、父の闘病、入院、死、葬式(といっても、コロナの第○波とかいう時期だったので、家族だけで簡単に済ませたのだが)まで、すべて遠い海の向こうで起こり、自分がその過程に積極的に関わることができなかったので、父の死を事実としては認識していても、あまり現実感がなく、父が実は長い長い海外出張にでも行っているような、たくさんのお土産を抱えいつかふらっと帰ってくるような、そんな幻想が頭のどこかにあった。

 

seisoblues.hatenablog.com

実家へ帰り、仏壇を見、遺影写真を見、父が生前使っていた、今はガランとして部屋を見ると、そんな幻想は吹き飛び、父の死という動かすことのできない現実に強力なパンチを食らわされたような気になった。

それから僕はずっと思っている。2年5ヶ月という間日本へ帰らなかったことで、何かとてつもない大きな間違いを犯してしまったのではないか、と。父の死目には間に合わなかったとしても、もう少し早く日本へ帰り、残された母を手伝うなり、そばにいて母の気持ちに寄り添うなり、そういったことは可能だったのではないか、と。日本へ帰らなかった2年5ヶ月の間に失ったのは、実は、父だけではなく、他にもまだたくさんあるのではないか、と。こういった、おそらく悔恨とか悲嘆と呼ぶべき感情が次から次へと押し寄せてきて、それは、米国へ帰ってきた今でも続いている。

一時帰国中、例によって例のごとく、湊川を歩いた。湊川の東山商店街を抜けてちょっと行った先に、父方の祖父母が住んでいたので、この辺りは、本当によく父と歩いた。この辺りを歩いていると、過去の様々な映像が悲しいくらいの鮮明さで蘇ってくる。小さな路地を入ったところにおじさんが一人でやっている小さな串カツ屋があって、駅から祖父母の家へ行く途中、そこで一休みして好きな串カツを一本食べさせてもらうのが、楽しみだったこと。電車の中で読んでいたコロコロコミックが重くて、父が持ってくれたこと。父のくれたクイッククエンチのレモン味のガムを噛みながら、この商店街を歩いたこと、などなど。

東山商店街以外にも、湊川商店街、パークタウン、湊川公園などなど湊川界隈はほぼすべての場所に何かしらの思い出がある。そこかしこに父と祖父母の面影がゆらゆら、ちらちらしていて、彼らが優しく手をふってくれているような気になる。これは、もちろん心地よい感覚には違いないのだけど、その一方で、僕を過剰に感傷的にさせてしまう。そんなときは、慣れ親しんだ神戸という場所ががこの上なく愛おしくなり、もうこの地には生活の基盤のない今の自分がたまらなくはがゆくなる。

僕の心がこういった感情に今支配されているのは、ひとえに、2年5ヶ月という長きに渡って日本へ帰らなかったことが原因だと思う。あまりに久しぶりの日本で、それにまつわる感情がうまく整理できていないのだと思う。なので、これは、もちろん時間が解決してくれるだろうし、また、以前のように定期的に一時帰国するようになれば、気持ちも落ち着いてくるのだと思う。というわけで、次は、年末の休暇に日本行きを目論んでいるのだが、航空券、高すぎ・・・。