歳月列車

米国での日常、そして、忘れえぬ日本の思い出

そして、誰もいなくなる

職業柄、4月は非常に忙しく、特に今年は会議やら採用の面接やらが重なって、自分のオフィスで仕事を片付ける暇がなかなか見つけられず、時間だけがどんどん過ぎていく。しかも、今日は土曜だというのに、夕方から年度末のパーティーがあるので、少々気が重い。同僚がどんなにいい人たちでも、仕事は仕事、週末に仕事関係で駆り出されるのは、何だか損した気分になる。

以前、母が骨粗鬆症による骨折で入院したことを書いたが、退院して2週間もしない間にまた同じところを骨折、再び入院となった。また、長年服用していた精神安定剤への依存も高まっているようだ。78といえば、今の日本社会ではそれほど高齢ではないのだろうが、父の死以来辛うじて保ってきた精神的・肉体的バランスがここに来て崩壊し始め、精も根も尽き果ててしまったようだ。

seisoblues.hatenablog.com

僕はしばしば思う、果たして母は幸せな人生を送ってきたのだろうか、と。以前の記事では母が感情的な人だということを書いたが、母がたどってきた人生を思うと、彼女の感情の起伏の激しさには極めて正当な理由があるように思う。

母の出身は、四国の田舎町。そこから神戸へ嫁いできて、長い間、姑・舅・小姑たちによる陰湿ないじめを受けてきた。姑・舅は、僕にとっては優しい祖父母であったが、母にとっては、「長男の嫁の責任」という当時の女性たちが抗うことのできなかったマジックワードを使って、理不尽な要求を次々と突きつけてくる恐ろしい存在だったらしい。これには、家のしきたり云々とかだけではなく、借金の建て替え返済といった経済的な要求も含まれていたらしい。ま、僕から見ても、父方の祖父母は、幼い孫(つまり僕)をパチンコ屋に連れて行き、タバコをプカプカふかしながら、僕を膝の上に乗せてパチンコに興じるようなちょっと風変わりな人たちで、経済的・社会的な規律に欠けていたであろうことは、十代の半ばにはすでに感づいていた。

僕が17のときに祖母が突然亡くなり、湊川の家には祖父が一人残されたわけだが、大正生まれの元軍人であった彼は、家事をこなす能力を全く持ち合わせておらず、結局、長男である僕の父が引き取ることになり、彼の実際の世話は長男の妻である母にのしかかってきた。そこから、祖父の亡くなる十数年間は、母にとっては決して幸せな日々ではなかった。散々自分をいじめ抜いた老人の世話(そして介護)を強要され、神戸市内・近辺に住んでいる小姑たちからは全く協力を得られず、それに加えて、夫と三人の子どもたちの面倒も見なければならない。

これらをすべて、嫁・妻・母であるという理由だけで無償労働として行うわけだ。今、自分がそのような立場に置かれたとしたら、おそらくひと月も我慢できず、発狂寸前にまで至ってしまうだろう。実際、母もこの時期、かなり精神的に参ってしまい精神安定剤の服用を始めたらしい(僕は、これを随分後になってから知ったのだが)。

ただ、老いゆく祖父と長男家の嫁としての母との力関係が変化したのも事実で、我が家に越してきてから数年のうちに、祖父は家族内での権力者としての地位を確実に失い、母がいなければ何もできない一老人になってしまっていた。祖父はその最晩年には高齢者施設に入り、最期は母に感謝して亡くなったそうだが、映画や小説ならいざしらず、現実の世界では、最期に感謝の言葉を述べられたからといって、それまでの数十年の苦労や恨みが解消されるわけではない。

母の四国の実家との関係はどうであったかというと、実は、こちらもいろいろあった。こちらはかなり複雑で、ここではあまり詳しく書くことはできないが、母とその妹たち(つまり、僕にとっては叔母)との間には、長きにわたる対立関係が存在している。母と叔母たちが最後に顔を合わせたのは、10年ほど前の祖母の葬式のときであり、それ以降は完全な絶縁状態が続いている。母同様、叔母たちも高齢なので、僕も心配はするが、こういう状態を改善するための時間も気力も今の僕にはない。果たして、叔母たちが生きているのかどうか、それすらも僕は知らない。

母は、70代に入った頃から、僕に彼女自身の生い立ちや実家の家族との関係なんかをかなり詳細に語るようになったが(これは生前の父も同様でした)、その過程で、僕がまだ二つの頃に亡くなった祖父の話も出てきた。当然、僕には祖父に関する記憶が全くないのだけど、母によると、かなり傲慢で癇癪持ちで祖母に暴力を振るうような人だったらしい。母は祖父のことが「大嫌い」だったそうで、これを聞いたとき、僕は少なからず驚いた。40年以上前に亡くなった親を、今でも「大嫌い」と呼べるほど嫌っていること、そこには「思い出補正」の入る余地が全くないことを知り、母が祖父に対して今だ持ち続けている強烈な負の感情について実感させられたのだ。

と、まぁ、こんなふうに整理してみると、母が非常に感情的な人であったことも自分なりに理解できそうな気がする。実家とも義実家とも常に問題を抱えていた母にとっては、夫と子どもたちが唯一の理解者であり、それゆえ、僕たちに対する理想も高く、その理想と現実との乖離が大きくなったときに、母の感情が高ぶったのだと推測する。

もうひと月もしないうちに、僕は再び日本へ行くことになっている。今、母は病院のリハビリ階におり、僕が一時帰国する頃に退院している可能性は極めて低い。退院していたとしても、その後は高齢者施設のショートステイを利用する予定なので、母が自宅に帰るのは随分先の話で、もしかしたら、もう帰ることがないかもしれない。

しかし、掃除や片付けのために、やはり実家には行こうと思っている。祖父がいる頃には6人と1匹の大所帯が暮らした実家だが、今はもう誰もいない。決して広い家ではないが、母一人には広すぎる家だ。そこに母さえもいないというのは、何だかとても奇妙な現実のように思えるが、家族というのは、こんなふうにして一人ひとりが様々な理由で去っていき、そこに誰かが暮らしたという記憶さえもいずれは消滅し、そうやって終焉を迎えるものなんだろう。ほんの数ヶ月前までは、母のこと、実家のことをそんなふうに考えたことはなかったが、僕が20数年間を過ごしたあの実家の終焉は確実に近づいているようだ。

阪神御影―旨水館と御影クラッセ―

神戸及び阪神間で御影というと、富裕層に属する人々の豪勢なお屋敷が立ち並ぶ阪急の御影が想起されることが多いと思うが、今日僕が話したいのは阪神電車の御影の方だ。こちらは、阪急から南へ1キロちょっと下ったところにあり、歩くと15分ちょっとはかかる。神戸・阪神間では、阪急沿線のブルジョア的風景と阪神沿線の下町的風景とがよく対比されるが、御影もその例にもれず、阪神御影周辺には、気楽に入れる庶民的な店がいっぱいで、街歩きなら阪急御影より、阪神御影のほうが楽しいと思う。

ここには、旨水館(しすいかん)という下町的商店街が阪神電車の高架に沿って伸びていて(今も健在です)、その昔、摂津本山近辺に住んでいた頃、よくそこまで自転車で買い物に出かけた。僕のアパートから10分もかからなかった。買い物の便利さ、品揃えの豊富さという点でいうと、甲南商店街の方に断然軍配が上がって、しかも、こちらは自宅から歩いてすぐの距離だったのだが、子供の頃から元町の高架下が大好きであった自分にとっては、同様に高架下商店街である旨水館に何かしら心ときめくものを感じ、月に2、3度は自転車に乗って出かけていった。

高架下という、狭小で薄暗い都市空間自体に惹かれて通っていたので、20年以上経った今では、そこでどんな買い物をしていたかあまり覚えていないのだが、一軒だけ今でも鮮明に記憶に残っている店がある。天ぷら・かまぼこの「丸武」だ。

関西の人ならご存知だと思うが、ここで言う「天ぷら」とは、野菜や海老を衣で揚げたあれではなく、練り物、つまり「さつま揚げ」のこと(僕が子供のころは、「さつま揚げ」なんて言葉は知らず、もっぱら「天ぷら」と呼んでいたんだけど、関西では今でもそうなんでしょうか)。僕はこの練り物の「天ぷら」が子供の頃から大好きで、その傾向は、大人になってお酒を飲むようになってさらに強まった。

ここでイカ天やなんかを適当に見繕って、家に帰ってちょっと甘辛く炊いたり、それすら面倒なときは、トースターで軽く焼いたりして、灘のお酒で晩酌しながら食べると、ささやかな幸せを感じたものだった。相方は、多くの非アジア系アメリカ人と同様、魚臭く(英語では”fishy”と言います)、ぷよぷよした妙な食感の練り物を毛嫌いしていたが、僕からの度重なる改宗への誘いに、神戸時代についに苦手を克服し、今では立派な天ぷらファンだ。

去年の一時帰国の際、母と妹たちと元町でお昼を食べた後、ふと思い立ち阪神電車に乗って、御影へ行った。阪神で三ノ宮から梅田に行く際通り過ぎたことは何度もあったが、電車を降りて街を歩き回るのは渡米以来だから、20年ぶりだったということになる。

「御影クラッセ」という、駅前の商業施設にありがちな、意味はよく分からんが耳への響きはなんとなく心地良い名称の(他にも「須磨パティオ」とか「エビスタ西宮」と、挙げていけばいくらでもありますよね)立派なショッピングセンターが出来ており、もちろん以前から電車で通過する際によく見ていたのだが、実際に降り立ってみると、御影の街が大きく変貌していることを実感した。僕の知っている阪神御影は、もうちょっとゴチャゴチャした、いかにも「阪神」的な街で、これは今でも駅からちょっと離れると健在だが、少なくとも「御影クラッセ」のある駅北側はすっかり様変わりしていた。

この手の駅前商業施設に関しては、ユニクロとか無印とかスターバックスといった巨大資本に独占されて、どこに行っても同じような都市風景が広がっている、という批判があるのは重々承知で、僕も同様の危惧を抱いたりもするけど、実際に住んでいる人の立場からすると、こんなに便利なものはないと思う。ほとんどの買い物が、三宮や梅田に出ずとも駅前で完結してまうのだから。

6年ほど前、仕事で大阪に一月半ほど滞在したとき、用意してくれたマンションが阪急の南千里駅すぐのところにあったのだが、駅前には阪急オアシスもカルディもスタバも入った「トナリエ南千里」なるものがあって、本当に重宝した。僕が今暮らしている米国には、駅前で毎日の生活のニーズを充足させるという暮らし方がほとんど定着・普及していないので(そもそも、鉄道・地下鉄の恩恵を受けている場所に暮らす人々が極端に少ない国ですからね)、便利な日本の都市生活はうらやましい限りだった。

で、阪神御影に話を戻すと、久々に旨水館を散策することを目的に駅に降り立ったのだが、その日は水曜日、悲しいことに旨水館の定休日だった。商店街を歩くのだという気持ち満々で御影まで来たので、けっこうくやしく、タクシーを拾って近くの甲南商店街か水道筋商店街へでも行ってみようかと思ったのだが、結局、阪神電車で新開地まで戻り、湊川の商店街を歩くという代わり映えのしない行動を取ってしまった。旨水館へは、渡米以来まだ一度も戻れずにいる。

「母と歩いた市場への道」

今年78になる母が2ヶ月ほど入院していたのだが、先日ようやく退院した。背骨と肋骨が折れており、その治療のためだった。こけたとか、何かにぶつかったとかいう明確な事件があったわけではなく、長引く腰痛だと思って整形外科を受診したところ、体の両面に骨折があることが判明したのだった。無事完治し退院したとはいえ、骨粗鬆症がかなり進行しているとのことで、これからは日常の生活においても、重いものを持たない、激しい運動をしない(もとから激しい運動する人ではないが)など、いろいろ制約が加わるようだ。

母は、感情的な人だ。僕が幼かった時分は、感情的な、もっといえば情緒不安定的な側面はなるべく見せないようにしていたのだろうけど、僕が十代なかばにさしかかった頃、つまり、ひとりの少年がそろそろ大人の仲間入りをし大人の話を真面目に聞けるようになる頃から、そういった側面を隠すことが少なくなったような気がする。親戚づきあいで問題があったとき、父の浮気が疑われたとき、妹の恋愛問題がこじれたときなどなど、母はそのたびに取り乱して、泣いて、激昂した。僕は、母親とはそんなもの、悲しいときには泣くもの、それが普通だと思って育った。

以前にも書いたが、僕がカムアウトしたとき、母は、やはり泣いた。それは、涙が頬からすーっと流れる、という程度の泣き方ではなく、顔を真赤にして、感情的な言葉を口走りながら、涙をボロボロ流す、多分に「映画的」な泣き方だ。自分が母によって受け入れられなかったことは悲しかったが、母が泣いたという事実には驚かなかった。もうその頃には慣れっこになっていたからだ。

とは言っても、普段の母は優しく愛情深い人だった。当時の中産階級の既婚女性の多くがそうであったように、母は専業主婦で、子供と夫の幸せを自分の幸せと信じその人生の大半を過ごしてきた。趣味も持たず、友人づきあいといっても、せいぜい今で言う「ママ友」とのたまのお茶程度で、金のかかることは一切せず、すべては子供のため、という生き方だった。「子どもが世界で一番大事」みたいなことを子どもに直接言うような人で、それは、子どもの自己肯定感の形成という観点からはよいのかもしれないが、一方で、そういった発言は子ども心にけっこう重くもあった。

三人の子どもがすべて独立し、長年連れ添った伴侶を亡くした今、母の生活は孤独だ。今回の怪我と入院を通して孤独度は増幅され、感情の浮き沈みも激しくなったようだ。妹たちはそれほど遠くに住んでいるわけではないので、定期的に訪れているし、僕も2、3日おきに電話で話しているが、皆それぞれ仕事と生活があるので、四六時中かまっているわけにもいかない。それは子供と孫に囲まれて幸せに暮す、という母が夢見てきたであろう老後とは大きくかけ離れている。電話越しに涙声で体の辛さや精神状態の不安定さを訴える母の声を聞くと、可愛そうで近くにいてやりたいと思う一方で、どう反応していいのか分からず戸惑ってしまうのも事実だ。

このブログでは神戸と阪神間を中心に、自分の好きな場所、思い出の場所について、自己満足的にうだうだ書いているが、母との思い出の場所というのはあまり思い浮かばない。これが父となると、彼の最晩年に一緒に行った沖縄や広島の江田島などいろいろある。もちろん、これらの旅行には母も同行したのだが、父の希望で訪れ、父の見たいものを見、父の食べたいものを食べた、という点において、これらはやはり父の旅行であった。考えてみると、母はいつもこんなふうで、夫のしたいこと、子供のしたいことを優先してきたので、自分から、あんなことをしたい、あそこに行きたいと自分の希望を表明したことはほとんどなかった。

ふきのとうの歌に「ふる里に春が来た」というのがあって、個人的にとても気に入っている歌なのだが、その2番に次のような歌詞が出てくる。

頭を垂れた麦の穂は
案山子と夕日の中
母と歩いた市場への道
ふる里に夏が来た

僕が育ったのは、こんな牧歌的で叙情的な田舎町ではなく、無機質な団地の町で、「麦の穂」とも「案山子」とも無縁だったが、この歌を聞くと、幼い頃、近所のトーホー(神戸とその周辺に展開する地元スーパーです)やコープに母に連れられて歩いていったことを決まって思い出す。母との思い出の場所といえば、悲しいかな、それくらいしかない。

この手のブログの記事の締めくくりとしては、母が元気になったら、もっといろんな場所に連れ出して思い出を作りたい、みたいなのが妥当なんだろうけど、母の衰えゆく体力、感情の起伏、そして僕自信の遠い異国での生活などを考慮したとき、これから母と一緒に日帰りなり一泊なりの旅行へ出かけるという可能性はほとんどないと思う。おそらく、母にまつわる思い出の場所というのは、今後もずっと幼い日のトーホーやコープであり続けるだろう。

弓弦羽神社の桜を思う

20年以上前の写真が出てきました

今年は春の訪れが早い。米国東部のこの街に越してきて今年で7年目だが、雪が降らなかった冬は初めてじゃないだろうか。2月の終わりからどんどん気温が上がって、いつもなら3月の中頃に見頃になるマグノリアと洋梨の花が、今年はもう満開だ。なんと桜も、もう咲き始めている。ここまで早いとちょっと怖い気もする。

桜と言えば、阪神間には桜の名所がたくさんある。有名どころでは、王子公園や夙川、芦屋川なんかがあるが、これら以外にも、思いもかけない場所で美しい桜の花を見つけることがかなりの頻度である。神戸の東灘区に住んでいた時分は、花の季節がやってくると、JRの摂津本山や住吉から自分のアパートまでの帰り道、ちょっと道を変えたり、自転車のときは遠回りをしたりしながら、自分だけの桜の名所を開拓するのが楽しかった。

弓弦羽(ゆづるは)神社の桜を見つけたのも、ちょうどそんな風に、ぬるい春風に吹かれながら自転車を漕いでいるときだった。もう20年以上前のことだが、その日はちょうど日曜で、阪急御影駅近くのマンションに住む上司の家で昼のご飯をごちそうになり、その帰りだった。自転車で摂津本山方面へ向かうなら、山手幹線をそのまま東へ直進すればいいのだが、ぬくい春の夕暮れのこと、急いで帰る必要もなく、山手幹線の北側の閑静な住宅街の中をいい気持ちでゆっくり東進していると、突如、あまりに豪勢な桜のアーチが出現、思わず自転車を止めて見入ってしまった。何だ何だと自転車を降りて散策開始、それが弓弦羽神社だということが分かった。

家に帰って相方に報告し(今なら、きっとスマホで写真を撮り、そのままラインで送るんでしょうけどね)、数日後、彼を案内して再訪、その後は、桜の季節が来るたび、幾度となく足を運ぶことになった。今でこそ、弓弦羽神社は桜の名所として有名だが、インスタもフェイスブックもなかった当時はまだまだ穴場的存在で、そんな場所を見つけた自分が何だかとても誇らしかった。

日本について懐かしいこと、恋しいことは無数にあるが、冬の終わり、春の始まりの季節感ほど僕の郷愁を誘うものはない。僕が住んでいる米国東部の街にももちろん冬の終わりはやってくるし、当地の季節の巡り方は関西や東京のそれとよく似ているが、恋しいのは季節の移ろいそのものだけではなく、それに付随する日本での思い出、つまり、今や遠い海の向こうの地となってしまった日本に自分が確かに存在し、生きたことの証としての思い出だ。

その思い出というのは、弓弦羽神社の満開の桜はもちろんだが、母の作った甘辛いイカナゴの釘煮や、春の日の昼下がりに相方と巡った灘の酒蔵や、阪急の車窓から見た春霞の六甲山などなど、他人からすると取るに足らない他愛のないことばかりなんだけど、こういった懐かしい記憶というのは、いくらお金を積んでも買うことはできないし、また、遡及的に構築して脳にインプットすることも(少なくとも今の科学技術では)無理であって、その意味においてとても貴重だと思う。

昼の休憩時なんかにちょっと外へ出て、ベンチに座って柔らかい陽射しを浴びながら目を閉じると、そういった春先の思い出が次々とよみがえってくる。それは幸せな時間でもあるけれど、その一方で、今の仕事をしている以上、この季節に日本へ行くことはほぼ不可能であるという冷徹な事実を思い知らされる瞬間でもある。今の僕にできるのは、記憶を通じて想像の世界で日本の春を追体験することのみです。

阪急岡本の思い出

僕の住む米国東部のこの街も、最近は寒さが和らぐ日があって冬の終わりが近づいていることを感じる。先日の夕方、柴犬くんとの散歩の途中、そろそろ沈丁花の季節だなと思いながら歩いていると、奇遇にもあの甘い香りがただよってきて、思いもかけない場所で大きな沈丁花の株を発見。こちらでは、沈丁花はどこにでもあるわけではないので、近所のどの家に沈丁花が植えてあるかだいたい把握しているつもりだったが、こんな近くにも沈丁花があったとは。うれしい驚きだった。

で、今日は岡本の話。なぜ岡本かというと、2月といえば沈丁花もそうだが、梅の季節でもある、ああ、そうだ、梅といえば岡本の梅林公園だ、という連想があったからだ。ただ、今日は梅林公園の話ではなく、岡本の街の話なんですけど。

阪急岡本は神戸市東灘区の駅。阪急の中では神戸の一番東、つまり、一番大阪寄りの駅。ちょっと東へ行くと、芦屋市になる。駅自体はこじんまりとしているが、ここから少し海側へ下ったJRの摂津本山駅にかけては、石だたみの歩道がきれいで、品のいいお店が並んでいて、甲南大学のおしゃれな学生がたくさんいて、と阪急神戸線沿線の街の中でも特に高級感ただよう界隈だと思う。20年以上も前、渡米する直前まで住んでいたのがJR摂津本山付近で、当然、岡本も自分の生活圏だったが、あの辺りを散歩するのは実に楽しかった。

僕が岡本について具体的な知識とイメージを持ち始めたのは、大学に入った頃、同じ学科にいた岡本在住のある女性がきっかけだ。彼女は、高校は宝塚の名門私立、お父さんはどこかの会社の重役という、阪神間のお嬢様を体現するような人物だった。決して絶世の美女といういわけではなかったが、着ているものにしろ、身のこなしにしろ、自分とは違う社会階級の出だというのが明らかだった。時は1990年代初頭、まだバブルの余韻が残っていて、ブランドものに身を固めた女子大生がたくさんいた頃だ。彼女もそんな女子大生の一人だったが、彼女の場合は「大学デビュー」組のようなぎこちなさがなく、すべてが都会的で自然で板についていた。

僕のいた学科は1学年に40人ちょっとという、高校のクラスの延長のような感じだった。そんな中で彼女は、特別な、そして強烈なオーラを放っていて、入学してわずかひと月ほどで、すでに皆から一目置かれるようになっていた。学園祭で催しものをする際にはリーダーになって仕事を割り振ったり、飲み会では場を仕切ったりと、とにかく目立つ存在だった。勉強もよくできて、授業中の議論では積極的に発言していた。

僕は、高度経済成長期における「一億総中流」の日本社会を象徴するようなニュータウンで育った。そこでは、皆が同じような大きさの戸建て住宅か集合団地に住み、大半はサラリーマン家庭で、よって、貧富の差を意識することはほぼなかった。大学に入ってようやく、個人の努力ではどうすることもできない社会階級にもとづく格差が日本社会にも存在するということを実感するようにいたったのだが、そのきっかけのひとつが岡本の彼女だった。

彼女の家庭が具体的にどのくらいの金持ちかなんて、もちろん、僕には知る由もなく、当時流れていた彼女と金にまつわる数々の噂にしたって、その多くが信憑性に欠けるものだったと思う。ただ、彼女を見ていると、裕福な家庭に育ってきた人たちの余裕や自信や矜持みたいなものがヒシヒシと伝わってきて、その意味において彼女は、僕がそれまでの人生の中で全く出会ったことのなかったタイプの人だった。大人になってからこういう人と出会うと、嫉妬とか羨望とか、いわゆる「ルサンチマン」的な感情を抱いてしまうかもしれないが、当時の僕はまだ無邪気な子ども、彼女のことを素直にすごいと思っていた。

僕と彼女との間には個人的な接点はほぼなかったので、大学の卒業式後の謝恩会以来、彼女には会っていない。その後、彼女は、得意だった語学を活かしてヨーロッパのある国で就職し、今もそこで暮らしているということを大学時代の友人から聞いた。僕はといえば、彼女がちょうどヨーロッパへ旅立った頃、彼女のホームタウンである東灘区へ移り住み、それから渡米までの数年間、彼女の育った岡本の街を幾度となく訪れ探索した。正直言って、これまで彼女のことを思い出すことはほとんどなかったのだが、30年以上経った今でも、彼女のフルネームも顔も彼女にまつわる様々なエピソードもしっかり覚えているというのは、彼女がそれだけ強い印象を残したことを意味しているのだろう。ま、しかし、彼女の方は、僕のことなんておそらく覚えおらず、仮に覚えていてくれてたとしても、「同じ学科にいた男子の一人」くらいの認識だと思う。

岡本、次の一時帰国時には行きたいな。

 

名古屋へ―旧友との再会―

大学は地元関西だったけど、学生は全国津々浦々からやってきていて、その中でも僕の周りには名古屋圏からの友人がけっこう多かった。そんなこともあって、学生時代から名古屋方面にはけっこう行っていて、神戸や大阪や東京ほどではないが、それなりに親しみを感じる場所だ。誰かが愛知や岐阜のアクセントで話しているのを耳にすると、今でも条件反射的に体が反応して、何だか甘酸っぱい懐かしい気持ちがこみ上げてくる。

しかし、学生時代は四半世紀以上も前のこと、当時親しくしていた友人たちも一人、また一人と、特に理由はないものの疎遠になっていき、名古屋を訪れる機会もここ10年ほどはなくなっていた。

それが、去年の夏の一時帰国中、ちょっとしたことで、今は名古屋で商売をしている友人(仮にH君とする)と連絡を取ることがあって、今度、日本に来るときは是非お店にも遊びに来てよ、というようなことを言われ、社交辞令で言ってるだけなのかなと思っていたところ、12月の頭にまた連絡が来て、名古屋来れそうですか、来れないなら僕の方が大阪へ出向いて行きますよ、と言われて、ああ、彼は本気で会いたがってくれてるんだといたく感激してしまい、去年末の一時帰国中、僕の方から名古屋へ出かけていった。

大阪から名古屋まで新幹線ならすぐだが、急ぐ用もないので、今回はずっと乗ってみたかった近鉄特急「ひのとり」を利用した。常宿のある北浜から近鉄の上本町までタクシーならすぐだ。近鉄百貨店の地下で昼のご飯を調達して、いざ出発。2時間ちょっとの旅なので、昼を食べてウトウトしているとすぐに到着。

久々の名古屋なので、H君との待ち合わせの時間までに訪れたい場所が2、3あったのだが、旅の疲れか、ホテルに着いてベッドに横たわるとそのまま寝落ち。結局、あわててH君のお店へ行くようなことになってしまった。お店を一通り見学させてもらったあとは、場所を移して夕飯。名古屋近郊に住む別の友人も来てくれ、3人で学生時代のことや今の仕事のことや老後のことをあれこれ話ながら夜が更けていった。

と、まぁ、とてもありきたりな旧友との再会にまつわる話なんだけど、今回の名古屋行きでは、友情とか人の縁とかいうものについていろいろ考えさせられた。学生時代、H君とは特に仲がよかったわけでもないのに、なぜか現在にいたるまで交友関係が細々と続いている。彼の他にも日本には、僕が一時帰国すると実家のある町に必ず帰省してくれる幼なじみや、東京へ行くと片道2時間くらいかけて新宿あたりまで会いに来てくれる友や、僕の東京滞在中はだいたい予定を空けておいてくれる友なんかがいて、彼らには本当に感謝の念しかない。

僕は決して人付き合いがよい方ではなく、その傾向は、歳を経るごとに顕著になっているような気がする。事実、今の米国での交友関係を思ってみると、ほとんどが仕事関係の人たちで、その中にはプライベートでも食事や飲みに出かけたりする人もいるが、僕がこの街を離れるようなことがあって、例えば10年後再訪したときに、やあ、久しぶり、飲みに行こうや、と声をかけるような人はおそらくいない。

ここには相方と柴犬くんがいるので特に寂しいと感じることはないが、たまに日本へ帰って古い友人たちと会うと、気のおけない友情とはいいものだと実感する。また、彼らと知り合い友情を育んだ遠い昔を思うとき、そこには、今の自分よりもずっと明るく積極的で楽観的だった自分がいて、米国での仕事漬けの日々を何とか乗り越えていけているのは、そういった思い出のおかげかもしれないとも思う。

何だか今日はとてもとりとめのないことを書いているが、要は、もうそろそろ50に手が届こうかというこの歳で、気の合う友を見つけるのは非常に難しく、今いる日本の友たち(数は決して多くはないが)をこれからも大切にしなければならないし、そのためには努力も必要だということだ。

サイモンとガーファンクルの"Old Friends" (旧友)。冬の公園のベンチに静かに座る二人の老人を見て、自分と友人が年老いていく時の流れに思いを馳せる、という歌詞だ。中学生の頃に初めて聞いたときにはよく分からなかったのだが・・・。

 

カムアウトと夙川の思い出

去年の暮の一時帰国の際に、例によって例のごとく、普段は一人暮らしで話し相手のいない母から日々のよしなしごとをあれやこれや聞かされていたとき、ふとしたきっかけで、自分の性的指向(つまり、自分がゲイであるということですね)について両親にカムアウトしたときのことを思い出した。僕は、このブログで遠い(あるいは近い)過去のことを懐かしさを込めて、しばしば感傷的に書き綴っているが、半世紀近くに及ぶこの人生、できれば思い出したくない過去もそれなりにあるわけで、カムアウトをめぐる両親との軋轢もそんな過去のひとつだ。

僕が両親にカムアウトしたのは、90年代の後半。就職してまだ間もない頃で、職場がそれほど遠くなかったので自宅から通っていた。その数年前からゲイとしての活動を始めていて、そっち方面の友達から電話がかかってきたり(携帯電話は、まだそれほど普及してませんでしたからねぇ)、外泊したりすることが多くなっていたので、そろそろ言っておいた方がいいかなと思った。両親に自分のすべてを理解してほしいという大それた欲望があったわけでは決してなく、今後僕がどういった交友関係を持ち、どういった人生の選択をするかということを、一緒に住んでいる以上、ある程度知ってもらっておくべきだと結論づけたのだ。

両親がどう反応するかは全く予想がつかなかった。今でこそ、LGBTQの問題について理解が促進され、かなりオープンに話せるようになってきた感があるが、当時の日本では、ゲイに対するあからさまな差別はないものの、人は結婚して子供を持って一人前という異性愛のイデオロギーが支配的で、そんな気軽にカムアウトできるような社会的雰囲気ではなかった。そもそも、当時は、異性愛者、同性愛者にかかわらず、独身でいるということ自体、まっとうな人生から外れていることのように見られていた。

もちろん、東京や大阪といった大都会のど真ん中で育ったなら状況は違ったんだろうけど、僕が住でいたのは神戸の郊外の小さな町、両親が僕の望むほど進歩的・開明的であるという保証はどこにもなかった。ま、すでに経済的には自立しているわけだし、最悪の場合、家を出て一人で住めばええやと楽天的に考えていた(で、実際、そうなったのだが)。

カムアウトの結果は、う〜ん、ひどかったですね。母は完全に取り乱し、今まで一生懸命育ててきた息子に何でこんなひどい仕打ちされなあかんの、と泣き出した。人の性的指向というものが、服を着替えるように変えたりできるものではないということが分からず、僕が彼女を困らせるためにゲイになることを選んだとでも思っているようだった。父の方は、母のように感情的にはならなかったが、「世間の常識」という概念を持ち出してきて、僕のしていることは異常だと主張した。

皮肉なことに、僕は、他でもなく両親が授けてくれた高等教育のおかげで、ゲイであることが異常でも何でもないことを理解していたので、両親に言われたくらいでゲイとして生きることを断念してしまうようなそんなタマではなかったが、やはり、そこは人生経験浅き若者ゆえ、両親の無理解には正直傷つき、早々と家を出る決意をし、5月の連休明けには小さなワンルームのアパートへ引っ越した。

それ以降は、少しの冷却期間を経て両親も徐々に落ち着き、7、8年後には相方と会って食事をするまでになった。今となっては、あの時は両親も苦しかっただろうし、こちらももう少し色々な下準備・根回しをして、彼らに大きなショックを与えない形でカムアウトするべきだったかなと思ったりするのだが、カムアウトしたあの日から家を出るまでの数週間のことは、辛きことばかりで、やはり今でもあまり思い出したくない。

そんな思い出したくないことをなぜここでウダウダ書いているのか。家を出ると決意してアパートを探しにいったのが阪急の夙川界隈で、その時の夙川の美しい風景が今もしっかりと胸に焼き付いているからだ。

神戸や阪神間住みの人には説明不要だろうが、西宮の夙川沿いは、お隣の芦屋川沿いと並んで、桜の名所として知られている。それ以外の季節でも、阪急の夙川駅から南北に伸びる川沿いの遊歩道――北へ行けば阪急の苦楽園口、南は阪神の香櫨園――は季節の花にあふれ、都会の真ん中にいることを忘れさせてくれる静かな空間だ。

僕がアパート探しに行ったのは、4月の中頃。夙川の駅近くにあったエイブルで部屋を即決して外に出ると、すでに薄暗くなりかけていた。なるべく両親と顔を合わす時間を減らしたかったので、その辺をちょっと散歩して帰ることにした(こういう場合、今ならどこかで飲んで帰るんでしょうけどね)。桜はすでに散り、葉桜の季節だった。その年は正月を過ぎた頃から、就職活動やなんかでとても忙しく、その時にやっと花の季節がすでに過ぎてしまっていることに気づいた。

香櫨園へ続く遊歩道上のベンチに腰掛けて、春先のぬるい風に吹かれながらぼーっとしていると、涙がすーっと流れてきた。でも、それは、悲しいとか辛いときの涙というより、僕と両親との関係が以前のような、子供の成長を見守る親とその親の期待を背負って育つ子供、という無垢なものではもはやなく、これからは自分も一人の独立した大人なんだという事実に対する感慨への涙だったと思う。一人暮らしは楽しみであったし、何より、夙川のような美しく、しかも交通至便な都会の街に住めることに心は高揚していた。事実、実家を出てから渡米するまで阪神間で一人暮らしをした日々は、ちょっと大げさな言い方になるけど、未来への希望と野望に満ちていて、これまでの人生の中で精神的には一番充実していた(経済的に全然そんなことなかったけど)。

これは後日談になるが、その後、諸々の事情でそのアパートは断念し、阪急の別の駅の近くのアパートに住むことになった。しかし、夙川界隈は今でも僕にとって特別で、そしてもちろんお気に入りの場所で、一時帰国の際阪急に乗っていて、訳もなくふらっと途中下車してしまうことがある。