歳月列車

米国での日常、そして、忘れえぬ日本の思い出

サンディエゴの思い出

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アメリカに暮らしてもう20年になる。初めてこの国へやってきた時は、まさかこんなに長居するとは思いもせず、数年したら日本へ帰るつもりでいたのだが、どこで何が狂ってしまったのか。今では、この浮き草的、根無し草的――五木寛之氏風に言えば「デラシネ的」ですね――生き方にも随分慣れ、それなりにいいところもあると自分を納得させてはいるが、今でも心は日本にある。

あれ、今日はこんな暗い話をするのが目的ではなく、渡米して最初に暮らした街、サンディエゴの話をするつもりなのだ。ここには良き思い出がたくさんある。サンディエゴは、ロサンゼルスから200キロ、車で3時間ほど行ったところにある、カリフォルニア最南端の大都市。人口は100万を超え、カリフォルニアではロスに次ぐ大きさだ。

2000年代初頭の8月の暑い日、僕は日本を後にした。当時とても懇意にしていた友人と三宮の交通センタービルで、神戸の街を見下ろしながら最後のランチを済ませ、その友人の車で関空まで移動。保安検査場の前でしばしのお別れをして、ロサンゼルスへ飛んだ。当時はまだ関空から北米諸都市への直行便がかなりあって、僕が乗ったのはタイ航空。ビジネスクラスが、昨今のエコノミー並の値段で買えた。

ロスでは、一足先に渡米していた相方と合流、アムトラック(国鉄のアメリカ版です)でサンディエゴに向かった。ロスの市内を抜けると、アナハイム(ディズニーランドのあるところです)、サンタ・アナ、アーバイン、とオレンジ郡の街々が続き、その後、列車は、海岸線に沿って南下していく。太陽の光を浴びてキラキラ光る青い海、果てしなく続く青い空という、憂いのかけらもない、どこまでも脳天気な南カリフォルニアの風景がそこにはあり、サンディエゴまで飽くことがなかった。

サンディエゴでは、友人宅に居候させてもらいながら、すぐに部屋探しを開始。アメリカでは賃貸住宅は、不動産屋を通してではなく、地域紙の広告欄を参照したり、あるいは、実際に住みたいエリアを訪れ「Vancancy(空室)」のサインのあるアパートに直接連絡を取ったりして探すのが一般的だ(少なくとも当時はそうだった)。我々も、自転車で街を走りながら、良さげな物件の管理人と直接話して即決した。当時のカリフォルニアは、賃貸料・不動産価格を含む物価がまだそれほど高騰しておらず、我々のような高給取りでもない普通の労働者が街の中心部に小綺麗なアパートを借りて住むことができた。アメリカの場合、保証金の上限が家賃の二ヶ月分と法的に決められており(普通はひと月分)、保証人制度なんてものはなく、アパートには冷蔵庫もオーブンもブラインドも備わっているので、寝具さえあれば、すぐに生活を始めることができ、そういう点でもとても気楽だった。

住居が決まったら、次は運転免許だ。百万都市といえども、アメリカの他の多くの都市と同様、サンディエゴでは公共交通機関がほとんど発達しておらず、ほぼ完全な車社会。車がないと生きていけない。まず相方が免許を取り車を買った(相方はアメリカ人だが、カリフォルニア出身ではないので、カリフォルニア州の免許を新たに取得する必要があった)。外国人の場合も、やはり居住する州で免許を取る必要がある。こちらでは、教習所に通う人はほとんどおらず、たいてい、免許を持っている両親や兄姉から運転を教わる。僕も相方に横に乗ってもらい練習をした。それまでは阪神間という交通至便な場所に住み、5、6年ほど運転から完全に遠ざかっていたが、練習するとすぐにカンが戻った。

試験は日本と同様、筆記と技能。予約なしで好きな日に市の自動車管理局へ行き、筆記試験を受けたい旨を伝えると、試験用紙とペンを渡され、その辺のベンチに座って解答を記入、その場で採点をしてくれて、合格ならすぐに技能試験の予約を入れてくれる、という何ともゆる〜いプロセス。試験の日には自分の車に乗って(日本では考えられませんね)、また自動車管理局へ。試験官を助手席に乗せて、運転技能を披露する。高速に入ったり、バックしたり、縦列駐車したり、とこれは日本も同じか。この技能試験に合格すると、免許発行の手続きへと進み、1週間位で郵送される。僕は、筆記も技能も何とか一回で通ったので運がよかった。免許取得までにかなりの時間と金がかかる日本と比べて、アメリカでは車の運転が生活の大前提なので、あっという間に、とても気軽に免許が取れてしまう。

車の運転を始めると、生活の質が断然向上した。南カリフォルニアの醍醐味ともいえる美しいビーチにも行き放題。南カリフォルニアでは、大小無数のビーチが何十キロ、何百キロとつらなり、海岸線を構成しているが、これらは車なしでは絶対に行けない。僕は、世界を貪欲に渡り歩く沢木耕太郎的旅行者でもなければ、アメリカン・エキスプレスの広告に出てくるような国際派ビジネスマンでもないので、僕の見た世界はたかが知れており、当然、比較の対象は限られているが、南カリフォルニアのビーチは、これまでの人生で見たものの中でも最も視覚的に美しいもののひとつだったと思う。白い砂浜に立ち、乾いた涼しい風に吹かれながら太平洋の彼方へ沈みゆく太陽を見ていると、短いながらも心地よい幸福感に包まれ、カリフォルニアに来た自分の決断の正当性を今一度確認することができた。

と、こんな感じで、僕のサンディエゴ生活は始まり、とても単純に、美しいこの街に恋をした。が、「三つ子の魂百まで」とはよく言ったもので、これだけ美しいものに囲まれてはいても、やはり、慣れ親しんだ新開地や元町の狭く小汚い通りを懐かしく思う気持ちは変わらないもの。渡米して約一年後、初めての長期休暇で日本へ一時帰国したのだが、阪急三宮の西口から街へ降りてきて、煙草と古い油と焼き鳥の混ざりあったようないかにも「都会の盛り場」的な匂いを嗅いだときは、あまりの懐かしさに涙が出そうになった。

ふむ、結局今日もいかに日本が恋しいか、という話になってしまった。。。