歳月列車

米国での日常、そして、忘れえぬ日本の思い出

グレン・ミラー

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スウィング・ジャズは、アメリカという巨大資本主義国家が生み出した音楽ジャンルの中でも、最も豪華できらびやかなもののひとつだと思う。スウィングが生まれたのは、1930年代、アメリカがニューディール政策を通じて大恐慌から立ち直りつつあったときで、大編成バンドによって演奏される軽快で甘美で快活なメロディーは、いかにも楽天的で自信に満ちたアメリカの音楽という感じだ。

僕が初めてスィング・ジャズと接したのは、14か15の頃、ありきたりだが、グレン・ミラー楽団を通してだった。今となっては、どのようにグレン・ミラーを知るようになったか明確なきっかけは思い出せないのだが、おそらく深夜のテレビで『グレン・ミラー物語』を見たか何かだったと思う。

「イン・ザ・ムード」や「ムーンライト・セレナーデ」などは、グレン・ミラーのファンでなくても、アメリカニズムに深く影響された戦後の日本社会で育った人なら、きっとどこかで耳にしたことがあるはずで、僕も、初めて聴いたのに、なんとなく懐かしい感じがしたのを覚えている。今は亡き父は、全く音楽には興味のない人だったが、そんな父でも「アメリカン・パトロール」を口笛で吹いたりして、お父さん、この曲知っとたんや、とびっくりした。

僕がスィング・ジャズ、特にグレン・ミラーが好きだったのは、ひとえにその明るさが理由だったと思う。先にも書いたとおり、当時の僕は、サイモンとガーファンクルの孤独で内向的な世界に没頭していて、そういった世界が不安定な思春期の感性にはとてもよくマッチしたのだけど、その一方で、ときには甘く陽気な音楽に浸っていい気持ちになりたい、という欲望もあり、グレン・ミラーの音楽は、そんな欲望を満たしてくれる種類の音楽だった。「イン・ザ・ムード」の迫力あるオープニング、「茶色の小瓶」の躍動感、「パーフィディア」の匂い立つようなアレンジ、どれも僕を最高の心地よさへといざなってくれた。スィング・ジャズがただ単純に明るいだけではなく、とても奥の深いジャンルだということを知るのは、もう少し後になってからだった(といっても、僕は音楽に関しては完全な素人なので、その理解は今でもとても浅薄なんですけど)。

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グレン・ミラー本人は、謎の飛行機事故で1944年に亡くなったわけだが、グレン・ミラー楽団はその後も団員交代を繰り返しながら、今でも存続している。日本には根強いファンが相当多くいるようで、定期的にツアーを行っているようだ。1980年代も終わりかけのある春の日、彼らが神戸国際会館に来たとき、実は、僕も彼らの演奏を聴きに行ったファンの一人だった。周りはお洒落した大人の方ばかりで、小汚い10代の若造なんてたぶん僕一人くらいだったと思うが、そこは若造ゆえの大胆さで乗り切り、ビッグバンドの生演奏を楽しんだ。とてもよい夕べだった。

北浜慕情

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大阪で一番好きな場所はどこかと尋ねられれば、月並みかもしれないが、北浜と答えるだろう。実際、ここ10年ほど、一時帰国し大阪に滞在するときは必ず北浜に宿を取っている。

太平洋戦争の空襲でほぼ全土を焼き尽くされた大阪であるが、北浜周辺は比較的被害が少なく、よって昔ながらの面影を今も残している。大阪の街の全国的なイメージは、なんばや天王寺の、繁華で雑多なちょっと「ごちゃごちゃ」した風景と雰囲気によって形成されていて、個人的にはなんばも天王寺ももちろん大好きなのだけど、北浜(あるいは、淀屋橋・中之島も含むもう少し広い界隈)の見せてくれる大阪は少々異色だ。戦前に建てられたビルが数多く残る界隈をさっそうと歩く勤め人の姿を見ていると、戦前の大大阪時代の繁栄の歴史に想像が広がっていく。ここでは、あの凡庸なコーヒーチェーン店サンマルクさえ、歴史のロマンを感じさせる(これは、当然といえば当然で、サンマルクの入っているビルは1927年建築の高麗橋野村ビル)。

大規模な再開発が進んでいる梅田や、高級店が軒を並べている心斎橋や、日本一の巨大商店街を擁する天六・天満と異なり、北浜には派手さはない。しかし、盛り場の喧騒からは少し距離を置いた、上品で優雅で落ち着いた魅力がある。一人ぽつねんと街角にたたずんでいても、それが何となく都会的でサマになってしまうような町だ(ま、自分が「サマになっている」一人かどうかは全くの別問題ですが)。早朝、静寂の中を北浜から堺筋本町の方へ散歩するのもよし、昼間、柔らかい日差しを受けながら天満橋方面へ土佐堀川沿いを歩くのもよし、日が落ちてから、なにわ橋のたもとより淀屋橋方面のきらびやかなビル群を望むのも、おもむきがある。

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北浜の駅すぐ近く、堺筋から、高麗橋通りと道修町通りの間の小さな通りを少し西へ行ったところに青山ビルという1921年に建てられたビルがある。ツタのからまる味のある建物だ。以前はここの一階に大阪では有名な丸福珈琲が入っており、僕の好きな北浜スポットのひとつだったのだが、数年前に閉店、前回訪れた時は、キリンケラーヤマトというレストランに変わってしまっていた。がっかりしたが、レトロなビルで歴史に思いを馳せながら飲むビールも悪くはなかった。

追記 北浜のある鉄堺筋線って意外に便利なんですよね。天六にも日本橋にも一本で行けるし、阪急にも乗り入れてるので千里方面、京都方面への接続もいいし。個人的には大阪の地下鉄で一番好きな路線です。

サントリー・サウンド・マーケット

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その昔、僕がまだ中学生だった1980年代、FM大阪で「サントリー・サウンド・マーケット」という番組が平日の午後10時から放送されていて、毎晩楽しみしていた。パーソナリティはシリア・ポール。40代も後半に突入したこの年になると午後10時にはもうぐったり疲れていて、ベッドに入って本を読んでいるとそのまま寝落ちしてしまうのが常だが、血気盛んな中学生だった当時の僕にとっては、10時なんて宵の口で、この番組を毎日欠かさず聴いて、その後、本を読んだり、城達也の「ジェットストリーム」を聴いて、さらに深夜ラジオを聴いたりしながら2時とか3時まで平気で夜ふかししてたのだから、やっぱり元気だったんでしょうな。

「サウンド・マーケット」は、僕がFMラジオなるものの存在(といっても、僕が当時住んでいた場所ではNHKと大阪の二局しかなかったが)を知って初めて傾倒した番組だった。シリア・ポールの涼し気な声といい、選曲といい、僕がそれまで聴いていたAM放送の番組と比べて、何ていうかとてもおしゃれで、高尚で、都会的で、洗練されたっぽい雰囲気を漂わせていて、外国や都会や大人の世界に対する僕の知的好奇心を真正面からぐいっと掴んでくる、そんな番組だった。あと、これは、FM全般に言えることだけど、AMと比べると音質が桁違いによくて、しかも、トークが少なく音楽中心なので、お気にいりの歌をカセットテープに録音して繰り返し聴くことができた。なけなしの小遣いを捻出してレコードを買っていた当時の僕には、これはとてもありがたかった。

僕は、中学に入ったあたりから、背伸びして徐々に「洋楽」なるものを意識して聴きはじめ、当時ダイヤモンド社から出ていた『FM ステーション』を買ったり友だちから借りたりして(あれは、確か200円ほどだったので、中学生でも買えたんです)、今どんな曲が流行ってるのか自分なりに探求していたが、「サウンド・マーケット」から流れてくる曲には、僕にとっては全く未知の60年代、70年代のロックやフォークも多く含まれていて、かなり衝撃的だった。当時は、マドンナやホイットニー・ヒューストン、ワム、ペット・ショップ・ボーイズなんかの全盛期。でも、僕はこういった同時代のポップスやダンスミュージックよりは、60・70年代のカウンターカルチャー的(当時はそんな言葉、まだ知らなかったが)な音楽の方により深い共感を覚えた。

例えば、アニマルズ、ジェリーとペースメイカーズ、ハーマンズ・ハーミッツなどのバンドについて知ったのは、「サウンド・マーケット」を通してだった。ブリティッシュ・ロックは、ビートルズとストーンズだけじゃない、実はとても奥が深いんだ、という当然のことをここで学んだ。

ある日、ピーター、ポール&マリーの「風に吹かれて」が流れてきたときは、マリーの透明感のある、それでいて力強いボーカルに鳥肌が立った。英語の歌詞は全く分からなかったが、とても哲学的で重厚な内容であることは直感的に理解した。一体PP&Mとは誰ぞやと思っても、当時はもちろんインターネットなんてないので、本屋へ行ってそれらしき雑誌やムックを参照し、それがボブ・ディランなる人による作詞作曲で、ベトナム戦争が激化する60年代のアメリカでは反戦フォークが興隆していたことなんかを知った。それからしばらく、僕は、60、70年代アメリカのフォークソングに強い興味を持ち、PP&Mとボブ・ディランだけではなく、ブラザーズ・フォー、キングストン・トリオ、ピート・シーガー、ジョーン・バエズなども開拓していくことになる。今でも、PP&MのCDを取り出してきて聴いてみることが年に一度くらいはある。「パフ」や「悲惨な戦争」、「500マイル」、「花はどこへ行った」なんかを聴いていると、多感で好奇心旺盛だった当時の自分を思い出してしまう。あの頃は、まさか自分が彼らの故郷であるアメリカに住むことになるとは想像もしていなかった。

春日野道の友だち

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阪急春日野道

春日野道は、神戸の中心部、三宮のすぐ東隣の町。山側に阪急春日野道駅、海側に阪神春日野道駅がある。三宮から西は元町〜JR神戸、と繁華な商業地区が続くのに対して、東の春日野道は、いくつかの活気ある商店街を抱える下町的な町だ。

大学1回生のときにとても親しくしていた友人S君が、阪急春日野道からほど近いアパート(いわゆる、ワンルームマンションです)で一人暮らしをしていた。まだ入学して間もない頃、どこかの駅前でモツ鍋屋の割引券をもらって、それを何とはなしにS君に見せると、へえ、おもしろそう、ほな、一緒に食べに行こか、いいね、行こう、ということになり、5月の連休明けにそのモツ鍋屋――確か、阪急三宮の西口辺りだったと思う――へ行ったのが、S君との付き合いの始まりだった。その後、僕たちは急速に仲良くなって、大学の講義の後、一緒に三宮をぶらついたり、カラオケに行ったり、夜は夜で長電話したりした。

僕は自宅通いだったので、三宮の繁華街から徒歩圏内に一人暮らしをしているS君がまぶしかった。音楽の趣味にしろ、服装にしろ、地元の友達とは少し違う、何となく洗練された雰囲気を漂わせていて、S君と友達になることで自分も少し大人になったような気がした。向こうも僕のことをいたく気に入ってくれ、とても個人的な話をいろいろと共有してくれた。そのうち、夜遅くまで一緒に遊んで、僕が終電を逃してしまいそうなときは、S君のアパートに泊めてもらうことも多くなった。小さなアパートで来客用の寝具なんてなかったので、どちらから言い出したわけではないが、S君のベッドに一緒に寝かせてもらうようになった。

S君の実家へも泊まりに行った。川と橋の多いきれいな街だった。彼は、お気に入りのお好み焼き屋へ連れて行ってくれたり、高校時代のいろいろな思い出を聞かせてくれたりした。彼が僕の家へ遊びに来たこともあって、両親は、ええ友達ができた、と喜んでいた。夏の暑い盛り、S君がファンだというあるアーティストの野外コンサートにも出かけていった。

これだけのことが5月の連休明けから夏休みまでのわずか数ヶ月の間に起こったのだから、変化の多い、密度の濃い時間だったと思う。今なら平気で5年分くらいの変化・密度に相当するんじゃないだろうか(ま、これは、今の僕の生活がいたって変化の乏しい平凡なものであるという事実にも関係しているのだが)。

しかし、S君との親密な友情は、夏が終わる頃にはすでにしぼみ始めていた。ある晩、大学の別の友人と電話で話しているときに、彼が冗談半分に、お前とS、付き合ってるんちゃうか、とからかってきたのだ。歳を重ねた今なら、そうや、付き合ってるねんで、ええやろ〜、と軽く受け流すくらいの機転もあるのだが、当時の僕はまだ19の若者で、そんな風にからかわれたのがえらくショックだった。30年前の日本は、まだまだ同性愛嫌悪的な空気に支配された社会で、世の男性たちは、意識的にせよ潜在的にせよ「ホモ」とレッテルを貼られることの恐怖を少なからず内面化していたと思う。たぶん、僕もそんな男の一人で、それ以降、何となくS君とキャンパスで仲良くするのが気まずくなってしまった。

S君の方はどう思っていたか知らないが、彼は彼でサークル活動がけっこう忙しく、そっちの仲間と付き合うことが多くなっていったようだ。彼の方から遊びに行こうという誘いが来ることは、だんだんと少なくなった。僕の方も、上述の理由に加え、バイトが忙しくなり、そっちで一緒になる年上の友人たちと遊ぶことの方が楽しくなっていったので、前ほどS君と緊密に連絡を取ることはなくなった。そんなわけで、9月に入り秋の学期が始まる頃には、僕たちは互いを「多くの友だちの一人」みたいな位置に格下げしていたように思う。といっても、僕たちは同じ学科だったので卒業まで多くのクラスで一緒だったし、グループで飲みに行きもしたし、帰りの地下鉄で偶然一緒になってそのまま街で遊んだこともあった。でも、あれ以来、僕たちの濃い友情が復活することは決っしてなかった。

あのひと夏の友情と妙に高揚した気持ちは、一体何だったんだろうと今でも時々思う。ちょうど高校を卒業し大学という慣れない生活環境の中で、両者とも心を許せる友人を探していたところに互いが現れた、という偶然の産物だったのか。あるいは、僕たちを互いに親友として結びつけるもっと必然的な何かがあったのか。今となっては分からないし、数十年前のことなので思い出として美化してる部分もあるだろうが、ひとつ確実に言えるのは、あの頃の僕は、真面目なこと、くだらないこと、実に多くのことについてS君と語り合い、そして、笑い合ったということだ。あれから僕は様々な人と知り合い、友達として、恋人として、同僚として親しい関係、気のおけない関係を築いてきたけど、自分の人生であれだけ喋って笑った時間というのは、他にはちょっとないような気がする。

しかし、あれだけよく行ったS君の春日野道のアパート、今となっては、どこにあったか全く思い出せない。不思議なものですね。

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春日野道商店街

 

煮豆の思い出

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誰にでも子供の時分の記憶を喚起する匂いがひとつやふたつあると思う。僕にとっては、煮豆(関西風に言えば、豆の炊いたん)の匂いがちょうどそれに当たる。煮豆は、幼い頃から僕の好物で、それがおかずだとご飯もおかわりできた。大豆と根菜と昆布だしと醤油と砂糖とがちょうどいい具合に混ざりあった、あのほんのり甘辛い匂いを嗅ぐと、心は突如何十年も前の故郷の町に連れ戻される。寒い冬の日の夕暮れ、遊びから帰ってきて家の扉を開けたとき、煮豆のあの匂いが、石油ストーブの匂いに混ざって漂ってくると、それだけでとても幸福な気持ちに包まれたのをよく覚えている。

そんなわけで、今でも煮豆には思い入れがあるし、自分の体及び心との相性も非常に好ましいように思う。気が腐ったり萎えたり弱ったりしたときなど、豆を炊いて食べると、不思議に気持ちがリセットされ、完全復活とまでは言わないが、もう少しやってみるか、ええことあるかもしらんし、という気持ちになれる。

で、昨日、豆を炊いた。特に、気が腐っていたわけでも、萎えていたわけでも、弱っていたわけでもなかったが、昨日はちょうど一日在宅勤務の日だったので、このチャンスを逃すまいと、その前の晩から豆を水に浸しておき、朝方からスロークッカーで豆を水煮し、それを大根と人参とひじきと油揚げと一緒に炊いた。おそらく他人様にとっては何の変哲もない平凡極まりない、そしてあまりに薄味――いろいろ数値を気にせざるを得ない年齢なので――の煮豆だろうけど、自分にとっては、歴史的意義のある大切な食べ物であり、匂いを充分に堪能した後のはじめの一口は、今だ僕の心を熱くジーンとさせる。薄味だろうと何だろうと、「思い出」というのは何者にも勝る最高の調味料のように思える。

 

 

大阪日本橋、初かすみ酒房

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日本へ一時帰国したときの楽しみのひとつが、大阪は日本橋にある「初かすみ酒房 」での一杯だ。大阪で片付けるべき仕事が特になくても彼の地に宿をとって、一晩でも二晩でもゆっくりしたいと思うのは、この「初かすみ酒房」がその理由のひとつだと言っても過言ではないかもしれない。なんばグランド花月で吉本を見た後、なんばウォークを東進して、ここで一杯というときもあれば、梅田あたりで所要を済ませ、その辺で飲めばいいのに、やはり「初かすみ」でなくては、と日本橋まで足を運ぶこともある。

ここは、お酒も料理もすっきり簡素なのがいい。お酒は、奈良は久保本家酒造のお酒。癖がなく、主張が少なく、料理によく合う。おでんは、関西風の薄味。僕は、こういう、おでん専門店でない店の、あまり気張りすぎていない、ちょっと肩を抜いたゆるい感じのおでんが大好きだ。「何だ、これは!こんなに美味いものがあったのか」といった感嘆はないかもしれないが、ひと口、ふた口味わうにつれ、心が落ち着き、体がぬくもり、何となく懐かしい気持ちになる。他にも刺し身、天ぷら、焼き物、とりあえず普通の酒場にある料理はたいていあって、ほとんどハズレがなく、酒と料理がきれいに調和している。

この酒場は、大都会の主要駅のすぐそばという立地条件から、様々な人々が様々な理由で集う。もちろん常連さんもいるだろうが、彼らでがっちり固められているわけではなく、ふらっと入ってきて軽く一杯飲んでふらっと出ていく、という一見さん的な客も多い。僕のような旅人にとってはとても入りやすい場所なのだ。店のおねえさん・おかあさんたちは親切だが、あっさりしていて、しつこくなく、過剰なサービスはない。ここでは、誰もが巨大都市大阪に生きる何百万という人々の一人となり、匿名性が保証される。

その一方で、この酒場には不思議な親密性もある。皆、静かに品よく飲んでいるが、カウンター席のみの小さな店で、一人飲みが多いので、隣の人と会話が自然に始まる場合も珍しくない。また、客の中には、吉本や松竹の舞台から出てきたような、かなり個性の強い人もたまにいたりして、彼らのやり取りを観察しているのも愉快だ。そこは、やはり大阪という土地柄なのかもしれない。

つまり、僕にとって「初かすみ酒房」とは、一人で来訪し一人を楽しみながらも、自分は決して一人ではなく、同じように一人を楽しむ仲間が他にもいるという、少々逆説的な事実――匿名性と親密性の不思議な融合――を認識させてくれる、とても心地よい場所なのだ。しかし、次にここに行けるのはいつになるのだろうか・・・。

札幌の思い出

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北大キャンパス

6年ほど前まで札幌を訪れることが多かった。一回の滞在は短く、1週間ほど、長くても2週間だったが、それまでの7、8年は定期的に来札し仕事をこなしていた。はじめて札幌の地を踏んだのは、5月の連休の直後、空気の冷たさはまだ冬のそれで、当時住んでいたカリフォルニアの街では決して着ることのなかったコートが役に立った。

あれから、四つの季節すべてに来札する機会を得たが、個人的には、5月の終わりから6月にかけての初夏が最高だった。というのも、この季節は、大通公園や北大のキャンパスのライラックがちょうど見頃であったからだ。ライラックの優しく甘い香りは、色で言えば原色ではなく淡い中間色、ワインで言えばカリフォルニアものではなくフランスもの、映画作家で言えば黒澤明ではなく木下恵介のようで、つまり、激しく主張はしないが、すっと心に寄り添ってくれるような、目を閉じていつまでもかいでいたい香りだった。僕が札幌に通っていた頃は、精神的にちょっとキツイことが多く、未来に対して漠然とした不安を抱えていたときだったが、あのライラックの香りをかいでいると、そんな不安も束の間だけど忘れることができた。ライラックは、関西でも東京でも今僕の住んでいる米国の街でもあまり一般的ではないので、自分の中では「札幌=ライラック」という方程式が成り立っていて、一方を聞くともう一方を連想し、懐かしさに浸ってしまう。

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大通公園のライラック

札幌は、大通公園や北大キャンパスの他にも、適度に整備された自然が街中にあって散歩天国だった。円山公園や中島公園にもよく足を延ばした。地下鉄の円山公園駅あたりは住環境もよさそうで、もし札幌に住むならここか、という全く非現実的な空想を楽しんだりもした。

くたびれたときは、ミンガスコーヒーでよく休憩し、夜にまた出没してビールを飲んだりということもあった。コーヒーはもちろん、ミッドセンチュリーっぽい落ち着いたインテリア、心地よいジャズ、品の良い雑誌の数々など、ミンガスコーヒーのすべての要素が、ちょうど札幌のライラックのごとく、優しく静かに僕の心をときほぐしてくれ、これに関しては今でも深く感謝している。

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ミンガスコーヒー

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市電に乗るのも楽しかった