歳月列車

米国での日常、そして、忘れえぬ日本の思い出

思い出の塩屋

塩屋は、神戸市垂水区の海沿いの町。JRと山陽電車の駅が隣同士にある。JRは新快速はもちろん、快速も通過してしまう。神戸や明石以外の人にとってはあまり馴染みのある場所ではないと思う。

前回の日本滞在中、例によって例のごとく、湊川・新開地界隈をぶらぶらしているとき、そうだ塩屋に行ってみようと思いたち、新開地から山陽電車に揺られて行った。6月のあたまに日本へ発つまでの数ヶ月、本当に仕事が忙しく、何も計画を建てず思いたって何かをする、ということが全くなかったので、こんなふうに、ふと頭に浮かんだ場所にふらっと立ち寄ることができる、夕方まで何も予定がないという単純な事実自体がうれしかった。

神戸へ帰ってきても、西側の須磨、垂水、明石方面へ行く機会がほとんどなく、よくよく考えてみると、塩屋を訪れたのもほぼ30年ぶりで、我ながら驚いてしまった。その30年の間、舞子ビラとか、垂水のアウトレットモールとか、明石の魚の棚とかには行ったんだけど、塩屋は素通りしていた。どちらかという地味な町ですからね。

が、僕にとって塩屋は思い出深い場所だ。大学の頃、とても仲良くしていた友人S君がここにアパートを借りていた。彼は、入学当時は春日野道に住んでいたのだが、数カ月後、どうしても海の近くに住みたいと言い出し、塩屋にアパートを見つけた。仕送りをしている彼の両親は、神戸の中心部にせっかく借りたアパートを数ヶ月で出るという息子の選択が理解できなかった(当然といえば、当然ですよね)。

S君は、両親を説得するため、そして、保証人の書類にサインをもらうため、実家へ一度帰ることにした。その旅には僕もなぜか同行し、彼の生まれ育った小さな町を一緒に歩き回った。

S君が塩屋に住むことを強く望んだ最大の理由は、彼の生まれ育った町は海から遠く離れた内陸の町で、海に対して強烈な憧れがあったことだ。確か海を始めてみたのは、10何歳かのころだと言っていた。そういったことを、彼の実家のある、川と橋の多いとてもきれいな町を歩きながら話してくれた。

それを聞いて、僕はとても驚いたのを覚えている。僕は、海のすぐそばで生まれ育ったわけではなかったが、物心ついたときから、須磨や江井ヶ島や淡路へよく行っていたし、母の実家が四国の海沿いの町だったので、そちらでも海水浴に頻繁に行っていた。狭く細長い日本、みな同じような経験をしているのだろう、と勝手に思いこんでいた。なので、S君の生い立ちを聞いて、少し大げさではあるが、少なからずカルチャーショックみたいなのを受けたのだ。

僕ももちろん海が好きで、海や港に対して強い思いがある。しかし、それは、あくまで自分の生活圏に普通にあるものとして憧れているわけだが、S君の思いは、長らく手に入らなかったものをやっと手に入れて、それを絶対に手放すまいとする感情に近かったようで、そう考えると、S君がなぜ塩屋にそこまでこだわったのか何となく分かるような気がする。

彼の選んだアパートは、塩屋の駅からけっこう遠かった。駅を山側に出ると、狭い小道が迷路のように入り組んでいて、小さな呑み屋や喫茶店や個人商店なんかがポツポツとあったのだが、そこを抜けて、15分以上も歩いた急な坂の上にそのアパートはあった。決して便利な場所ではなかったが、見晴らしは最高だった。

8月のとても暑いある日、S君は春日野道のアパートを引き払い、塩屋へ越していった。今は亡き僕の父がワゴン車を出してくれた。父とS君と僕、大人の男が3人いれば、ワンルームからワンルームへの引っ越しは何ということはなかった。

しかし、これは別の記事でも書いたが、S君との友情はその頃にはすでにほころびかけていた。引越しの後、塩屋のアパートへ1、2度遊びに行っただけで、僕たちは互いに「その他大勢の友達」の一人になってしまった。

30年ぶりの塩屋は、あまり変わってなかった。垂水や舞子が再開発で随分変わったのと対照的で、塩屋は今だ「海沿いの小さな町」的雰囲気を漂わせていた。

S君は、今では実家のある町へ戻って仕事をしている(らしい)。当然、海からは遠く離れている。S君、今でも海が好きで、またいつかは海の近くに住みたいと思ったりするのだろうか。

 

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